2009/12/30

サン・テグジュペリ

努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。
_____「人間の土地」より

2009/10/26

メスキータ

ネパール・サッレ村の住居

堀部安嗣

ほしいものはかたちではない。
ほしいものは静かな光で満たされた、ゆったりとした時間。
ほしいものは自然と人の営みとの調和のとれた関係。
ほしいものは、「ここに居ることができる」と感じられる状態。
_____「form and imagination」より

新米や母に握られ我が口に

ラジオ体操

毎朝8時に職人達と一緒にラジオ体操をしている。
急な坂を上がった高台に位置するここからは、山と校舎と空以外は視界に入らない。
ある日大きく息を吸いながら胸を反らす時にふと空を見上げると、いつも同じ時間に同じ方向へ飛行機が飛んでいるのに気づいた。
それは東から西へ向かっており、富士山の上を音もなく通り過ぎていく。
おそらく羽田空港か成田空港から関西方面、もしくは海外へ向けて、勢い良く出発したばかりの飛行機であろう。
かつて私はその飛行機に乗って海外へ何度も出掛けた。飛行機の中から大地を見下ろしていたあの当時は、日常の世界から解放される喜びに充ち満ちており、そこにラジオ体操をしている人たちがいるなど知る由もなかった。その姿は蟻より小さいのである。
今後あの飛行機に乗るようなことは無いかも知れない。
そう思うと急にあの日常からの開放感が恋しくなるものである。
しかし飛行機に乗った鳥のような私と、地面で這いずり回る蟻のような私の、どちらが良いかは誰にもわかるものではない。当然それを問うことなど全く意味のないことである。
私にとって意味があるのは、その両方の目を経験することが出来たということであり、大切なのはその両方の目を持ち続けて居られるかということではないだろうか。
そんなことを考えていると、もうそこには飛行機はなく、蟻のように見えていた私自身は、元の等身大の人間に戻っていた。
そして山と校舎と空だけが、変わらずに存在していた。

2009/10/19

秋野不矩美術館

自宅の柿の木

井上靖

若し原子力より大きい力を持つものがあるとすれば、それは愛だ。
愛の力以外にはない。

流星を覆う睡魔の鰯雲

携帯電話

8月末から新しい携帯電話を使用している。
中学三年から高校一年になる春休みに初めて携帯電話を持った時の感情はもう忘れてしまった。
私はこれまでに6台の携帯電話を使用してきた。どの機種にも愛着を持っていたが、計算すると2年に一度のペースで機種変更してきたことになる。
1台目はデザイン・機能性ともに良いモノではなかった。当時は何より携帯電話というツールを手にした喜びで一杯だった気がする。
携帯電話を持つ喜びに慣れた2台目以降から、私なりに気に入ったデザインの機種を使用したいという欲が出てきた。
中でも5台目の機種には愛着があり、それは当時最も小型な機種であった。これ以上小さくすることは出来ないだろうという限界点に、私は美しさを感じ、小さな画面と小さなボタンに身体が馴れるのを楽しんでいた。
そんなお気に入りの機種とは、携帯電話会社の都合という外的要因により突然別れることとなった。
そんな外的要因がそうさせたのか、私は現在使用している機種をこれまで意識していたデザイン性など全く考慮せずに購入してしまった。
さらにサイズも以前の倍程になり、私の身体感覚と美的感覚は完全に狂ってしまった。
そんな望まれない出会い方をした不幸な機種であったが、今ではその大きさにすっかり馴れてしまい、以前の携帯電話のボタンは小さすぎてとても押しづらいと感じる自分に最近気づいた。そして愛着も少しづつ芽生えてきている。
モノと身体と感情の複雑な因果関係は、こんなところにも現れるのである。

2009/10/12

アルベール・カミュ

ある町を知るのに手頃な一つの方法は、人々がそこでいかに働き、いかに愛し、いかに死ぬかを調べることである。
_____「ペスト」より

朝冷えを独りで背負う駅の猫

クモの巣

毎朝7時前に母親の母校である中学校へ通っている。
そこは今私が関わっている建築現場である。
現場事務所の鍵を開けるため階段を上ろうとすると、うつむき加減の私の頭に大きなクモの巣が絡みついた。
またやってしまったと思っても時は既に遅い。私はいつもこの瞬間にクモの巣の存在に気づかされるのである。
このクモの巣はなかなかのくせ者で、連日巣を張っている時と、数日間巣を張らない時がある。その不規則なリズムは何か私に不吉な暗示をもたらしているのではないか。そんなことを考えるようになった。
それにしても、毎朝私に取り払われてしまうにもかかわらず、どうしてこのクモは毎回同じ階段の上がり口に巣を張るのであろうか。
まさか私を捕らえようとしているわけではあるまい。
そうなるとやはり、私に何かを伝えようとしているとしか考えられないが、それはクモ本人に聞かなければ永遠にわからないだろう。
ただひとつわかっていることは、この私とクモの不思議な関係を知る人は誰もいないということである。

国道246号線(御殿場)

白の家


2009/10/05

有楽町の高架沿い

御殿場の自邸(計画案)

鈴木秀夫

分布の成立の「原因」とその「時」を探るという問題が、諸学に共通して残された巨大なテラインコグニタであること、またその問題の面白さが理解していただけたならば、嬉しいと思う。
そしてもしこの書物に多少なりとも共感を持っていただけたとするならば、それは砂漠的な思考を共有しておられることだと思う。
_____「森林の思考・砂漠の思考」より

台風

伊勢湾台風に匹敵する、非常に強い台風が直撃すると予報されていた、10月8日の朝。
私は車で国道246号線を走っていた。
本格的に台風が直撃する少し前で、風が湿気を孕み縦横無尽に吹いていた。
車の窓は閉め切り、耳に付けたイヤホンからはsalyuの「ROSE」という曲が流れる。
すると私の心は窓の外の景色と離れ、内側に、深く、深く入り込んでいく。
そこには外の台風など入る隙間もない。
ふとイヤホンを外してみた。
そして窓を全開にした。
風が私の体の中にまで浸みこんでくる。
耳には雨と風と木々とタイヤの狂想曲が流れる。
私はやはり台風の中を時速80kmで走っていたのである。
心は窓の外の景色と一体となり、外側に、広く、広く入り込んでいく。
たった一枚のガラスが、私を取り巻く世界を一変させてしまうのである。
その日の夕空は、台風に洗われ、いつもより赤く染まっていた。

秋の夜給与明細落ち拾う

2009/09/28

カトマンズの寺院

北沢ハウス

秋茄子も食べずに遊ぶ子供かな

小津安二郎

綺麗な夜明けだった。
今日も暑うなるぞ。
_____「東京物語」より

姉と甥

先週から、姉と甥が我が家に滞在している。
甥は今年の10月25日で満2歳になる。
身内の色眼鏡なしでも、甥は可愛い。
本当にいつ見ても可愛いのであるが、これまで家族が撮った写真を並べてみて、この2年足らずで顔も体も、日々変化しているのに驚いた。そしてきっと心も同様であろう。
この変化は連続して甥を見つめていると気付かないが、過去の写真のように一定期間の隔たりがあるとよくわかるのである。
ところで、「線」の定義は、位置及び長さをもつが、幅及び厚さをもたない、無限な点の集合であるという。
甥の可愛いという「線」も、幅や厚さのない、点の集合なのだろうか。
写真を見ると、そうかもしれないと思わされる。
今の甥が好きなものは次の通りである。
母である私の姉。祖父母である私の父と母。曾祖母である私の祖母。家で飼っている二匹の金魚。台所の換気扇。車。ご飯。ボール。
これらは現在の甥の好みを示すいくつかの点である。
姉と甥が義兄のところへ帰るまでに、私も甥にとっての一つの点になれたらと思う。

2009/09/21

国立代々木総合競技場

コスモス

畑聰一

キクラデスに共存的環境が在ることと、東京がキクラデス的環境で埋めつくされることとはあるいは紙一重の差異であるかも知れない。

原宿駅前の歩道橋

日曜日の十時前にJR原宿駅前の歩道橋から、明治神宮の大きな杜と国立代々木屋内総合競技場、そして表参道を眺めていた。
私と違って自分の立てたスケジュールをきっちりとこなす彼は、きっと待ち合わせ時間に遅れることはない。
「彼」とは大学時代からの付き合いで、大学へ入学した最初のガイダンスの時に初めて出会ったと記憶している。
私自身の設計よりも彼の設計した作品の方が頭の中に残っていると言えば、私における彼の影響がいかに大きいかわかるであろう。
しかしこれまでの6年間、私と彼はいつも一緒にいたわけではなかった。むしろ歩いてきた方向は違っていたような気がする。
学部の卒業旅行で彼とアメリカを横断した時も、移動のバスの中ではいつも離れて座っていた。それぞれ反対の窓から、違う景色を眺めていた。
そんな彼には「ケンジ」と「サトシ」という二つの名前がある。
彼は生れる前から「賢司」と名付けられていたが、生まれた顔を見て両親が漢字をそのままに「サトシ」という読みへと変えてしまったらしい。その出来事が今の彼を創ってしまった。
彼には「ケンジ」という「論理的」な部分と、「サトシ」という「非論理的」な部分が同居していると、私は思っている。
数か月ぶりに見た彼の顔は、あの頃のままだった。

秋分に異国の蜥蜴ビール飲み

2009/09/14

厳島神社

南の家

アルフォンソ・キュアロン

別れ際 彼女はテノッチとフリオに言った
「人生は波のようなもの 流れに身を任せて」
_____「天国の口、終わりの楽園」より

球面と平面

私たちが住んでいる場所は、地球である。
その名の通り、私たちの住んでいる場所の地面は「球面」なのである。
しかし、私たちの住まいの設計図は平らな「平面」として描かれる。
それでは実際の建築は、一体「球面」と「平面」のどちらに建っているのであろうか。
それともそのどちらでもないのであろうか。
ただ、私はこの「球面」と「平面」という差異を認識しなければ、真の「建築」へとにじり寄ることは不可能であると思っている。

柿の実とコスモスの花膨よかに

2009/09/07

ポルトの街並み

ツユクサ

柳宗悦

国民はおのおの歴史的地理的環境によって、その特質を持つものである。
印度の「智」、支那の「行」、日本の「眼」は東洋の三大輝きである。
だから印度人は思索にたけ、支那人は実行に優れ、日本人は鑑賞にたける。
_____「茶と美」より

地鎮祭

9月11日に私が配属となった建設現場の地鎮祭が行われた。
この現場は私にとって感慨の深い現場である。
しかしここではその「感慨」を語らずに、地鎮祭の式次第という「形式」のみを記録しておく。
地鎮祭の流れは以下の通りである。
1.修祓(しゅばつ):祭に先立ち、参列者・お供え物を祓い清める儀式。
2.降神(こうしん):祭壇に立てた神籬に、その土地の神・地域の氏神を迎える儀式。神職が「オオ~」と声を発して降臨を告げる。
3.献饌(けんせん):神に祭壇のお供え物を食べていただく儀式。酒と水の蓋を取る。
4.祝詞奏上(のりとそうじょう):その土地に建物を建てることを神に告げ、以後の工事の安全を祈る旨の祝詞を奏上する。
5.四方祓(しほうはらい):土地の四隅をお祓いをし、清める。
6.地鎮(じちん):刈初(かりそめ)、穿初(うがちぞめ)、鍬入(くわいれ)等が行われる。設計・施工・建主がそれぞれを担当する。
7.玉串奉奠(たまぐしほうてん):神前に玉串を奉り拝礼する。玉串とは、榊に紙垂を付けたもの。
8.撤饌(てっせん):酒と水の蓋を閉じお供え物を下げる。
9.昇神(しょうしん):神籬に降りていた神をもとの御座所に送る儀式。
この日の気温は高かったが、ススキの穂と、黄色いコスモスが秋の到来を感じさせ、神職の方の仕草が際立つ、凛とした地鎮祭であった。

朝霧が惑わし魅せるは月か日か

2009/08/31

中沢新一

わたしたちの人類の発生の瞬間に脳の構造が変わって、そしてその中に縦横無尽に心の流動体を動かすことができるようになった時、見えるようになったもの。
これこそが最初の神であり、精霊である、というのが、ぼく自身が教わったことでした。

タイ調査日記


以下はタイ北部の民家及び集落調査の際に書いていた、滞在記の抜粋である。当時私は柄にもなく調査隊長であった。改めて読むと、そのことが良くも悪くも文章に表れているように思える。

2008.09.13
朝0530起床。涼風が吹いている。メーモン村最終日だがあいにくの雨。朝焼けは見えず。正木以外は畑の方へ出かけたが、残念。栗原さんは満足のいく写真が撮れたであろうか。0700に最後の食事を済ませ、荷作りをしたあとそれぞれの時間を過ごす。ノートにこれまでの畑研調査を書き出してみると、私は計10回の調査に参加したことになるのがわかった。走り続けた3年間であった。
雨が止み、0836にカンポンさんがピックアップトラックで迎えに来る。皆で記念撮影をし、出発。帰りは下りのためか、45分程でさくら寮に到着。伊藤と斉藤は調査の最中であった。
早く着いたので、昼食前にシャワーを浴び(水浴び)、1130昼食。やはりさくら寮の食事は美味しい。1330に空港へ栗原さんと3年生を見送りに行き、そのまま4年生のバスのチケットを買いに。明日1500発のチケット。直接帰らずコーヒーを飲み、トゥクトゥクでさくら寮へ戻る。そういえば3年生はトゥクトゥクに一度も乗っていない。
夕食。散歩。美しい景色と子供達。広場で遊ぶ。子供の頃に戻った気分。1930チェンライのナイトバザール。お土産を選ぶときに日本に居る人達の顔が浮かぶ。さくら寮戻。小澤と斉藤「さよならバス」歌う。私は先に就寝。

高鳴りを抑えて聞こゆ秋の川

常盤台写真場

モン族の住居

2009/08/24

夏の朝宮城の路地にカラス吠え

鴨長明

魚は、水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。
鳥は、林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。
閑居の気味も、また同じ。住まずして、誰かさとらん。
_____「方丈記」より

新婚旅行のお土産

今年の五月に結婚した私の元ルームメイトから、新婚旅行のお土産が届いた。
旅行先はモロッコだという。なんでも二人の希望する旅行先で唯一重なった場所だそうだ。
このお土産は現地から送るつもりだったが、滞在拠点から郵便局までが遠く、しかも気温が50℃という状況下のため断念したという。結局帰国後に送ってくれたのである。
小包の中には、モロッコのポストカード、モロッコのスーパーで市販されている日付スタンプ、モロッコの新聞と、高木正勝というアーティストのCDが同封されていた。
その中でも新聞に印刷されている、アラビア文字のフォントの美しさが目立っていた。
アラビア文字が右から左へと読んでいくものであることは、宮崎駿の映画「紅の豚」の冒頭で初めて知り、同じ内容の文章を書くのに、アラビア文字が一番多くの文字を使っていたのも印象的であった。
その新聞をよく見てみると、数字の部分だけは左から読むようになっていることがわかる。一体どういう目の動きをして読むのであろうか。
しかしモロッコ人からすれば、日本語のように縦書きも横書きも表現できる言語の方が、余程不思議なものに見えるのであろう。

松島

龍宝寺

2009/08/17

昭和天皇

世の中に雑草という名の植物はない

答志島のゴミ出し

外の日差しの強さが否応なく去年訪れた伊勢湾・答志島を思い出させた。
しかしカレンダーを見ると去年の答志島滞在から一年と2週間が過ぎていることに気付く。
現在の住まいである静岡県御殿場市と三重県答志島は同じ東海地方だが、御殿場市ではあの路地空間から直角に差し込んでくる太陽や、路地から家へゆっくりと入ってくる潮風は存在しないのである。
答志島滞在中、島民のゴミ捨て日の光景を見る事ができた。
朝七時に大きな切妻屋根の倉庫の中へ、集落の人々が一斉に突撃し、細かく分別していく。
仕分けをする役の人たちが10~20人程おり、可燃ゴミ以外に、ペットボトル・発泡スチロール・紙・プラスチック・アルミ缶・スチール缶・電球・電池・ビン類・その他缶類と書かれた札が下がっていた。
分別の際の皆の手際の良さと勢いは、一度見なければわからないであろう。
そのくらい、離島で発生したゴミの処理は重要なものなのである。
答志島の共存の仕組みはセコと呼ばれる路地空間とそれにつながる住居に表れていると語られてきた。
しかしその日の朝、私はこのゴミ捨て場である倉庫に、朝日に照らされた聖堂を見出し、赤鉛筆でスケッチをしていた。

セミ暑しコオロギ涼しや昼と夜

モン族の住居

イバン族のロングハウス

2009/08/10

金子みすゞ

ほこりのついたしば草を
雨さんあらってくれました。
あらってぬれたしば草を
お日さんほしてくれました。
こうしてわたしがねころんで
空をみるのによいように。
_____「お日さん、雨さん」

地震

全身に何かを感じ目が覚める。外はまだ暗いようだ。急いで上半身を起こし、周りを見渡す。布団からは出ない。本棚の上に置いていた小さな額が倒れる。部屋がミシミシという音を鳴らす。ついに来たのかも知れない。この部屋でこれほど軋むのは初めてである。これで東海地震が終わるのなら、揺れきって欲しい。地震が収まって、部屋を出る。向かいの部屋の妹が出て来た。母も出て来て、居間へ。弟は部屋から出ず、起きているかもわからない。祖母も座敷から出て来た。急いでテレビをつける。どの局でも地震の速報をやっている。対応が非常に速い。
父は前日から予報されていた台風で電車が止まるのを恐れて、職場のある熱海に泊まっていたが、結局台風は逸れてしまい、代わりに地震で電車が止まることになった。妹は仕事へ出るまでの時間が中途半端に空いてしまい、二度寝するか迷っている・・・。

2009年8月11日午前5時7分に、駿河湾沖を震源地とするマグニチュード6.5の地震が起こった。気象庁の発表によると、今回の地震は東海地震ではないという。
上の文章は、その地震の際に私が静岡県御殿場市で体験した、震度4の記述である。もし震度6や7といった地震が起きた時この記述がどのようになるのか、一度想像してみることは決して無駄ではないであろう。

真夏の日溝のセメント白かりし

海の博物館

オーイ族の住居

2009/08/03

夏目漱石

爽颯の秋風縁より入る。嬉しい。生を九仞に失って命を一簣につなぎ得たるは嬉しい。
生き返るわれ嬉しさよ菊の秋

万緑で隠れし家に赤子かな

小田急線

雨模様の日曜日、新宿駅から小田急線の最後尾の車両に乗っていた。
そこへ韓国人と思われる家族が乗車しているのに気づいた。
服装の雰囲気と、話している言葉、そして箱根観光のパンフレットに記載されているハングルの文字が何よりの証拠である。
父、母、姉、妹と叔母らしき5人は、最初全員立っていたが、席が空く度に順番に座っていった。
最初に座ったのは父である。娘の鞄を膝に載せてあげている。次に隣の2席が空き、母と叔母が座る。その後一人の日本人を挟んで姉が座り、父の向かいの席に妹が座る。それから妹の隣へ姉が移り、さらに姉妹で端の席へ移動し、最終的には5人全員が一列に並んで座った。
辺見庸の著書「もの食う人びと」に、儒教の食事作法は「先食後已(先に食し後に已むなり)」だと書かれている。客がいるなら主人側が、親子なら子の方が、先に箸をつけるのが礼儀であると。また、熱すぎないか冷たくないか、腐っているか毒などないか自らの口でチェックしたうえで「どうぞ」と食事を勧め、客や親が満足して箸を置くのを見届けてから主人や子が食事を終える。これが主人の客への礼であり、子の親への孝なのだとも書かれている。
食事の際の座席の配置や序列などについてはその本ではわからないが、この韓国に伝わる儒教の食事作法と、私が見た韓国人家族の一連の所作との関連性は、日本人との比較なども含めて、興味が尽きないように思われる。

神奈川県立近代美術館・鎌倉館

阿佐ヶ谷の家

2009/07/27

草薙や頭の熱と丘の夏

今和次郎

われわれは各自、習俗に関する限りのユートピア的なある観念を各自の精神のうちにもち、そして自分としての生活を築きながら、一方で世間の生活を観察する位置に立ちうるのだと告白をしたくなるのである。

部屋のカビ

私の部屋に最近カビが生えてしまった。
カビの発生場所は北側の窓付近とクローゼットの中である。鞄やジャケット、敷き布団や竹製のスツール、手織りの布や建築模型などに、白から緑のグラデーションとなったカビが点状に付いていた。
元来私の住む御殿場市は霧の発生量が多いことで知られている。
御殿場市とそこから約25km離れた海沿いの沼津市における7月の気象状況を比較すると以下の通りである。(資料は平成2~6年の平均値。提供は御殿場市・小山町広域行政組合及び沼津市消防署。)
御殿場市/晴日:5.4日。曇日:20.4日。雨日:5.2日。平均気温:22.8℃。総雨量:248.7㎜。湿度:72.6%。霧の発生日:5.8日。
沼津市/晴日:12.6日。曇日:15.4日。雨日:3日。平均気温:27.7℃。総雨量:144.7㎜。湿度:78.4%。霧の発生日:0日。
やはり御殿場市の気象状況で注目すべきは霧の発生日である。沼津市では全くのゼロというのは、容易に理解できることではなく、これには地理学的・気象学的な考察が必要であろう。
そんな御殿場の霧の中で、毎夜窓を開放していたのが、カビ発生の原因だと思われる。
ちなみにカビが生えたモノは、私が研究で滞在した東南アジアにまつわるモノや、そこで身につけていたモノばかりであった。これはもちろんただの偶然である。しかし東南アジアの山村の建築模型にカビが生えて、隣に並ぶスイスの山に建つ住宅模型にカビが生えなかった事は、単なる偶然では片付けられない気がする。

伊勢湾答志島

ハウスインヨコハマ

2009/07/20

暗闇に浮かぶケーキと花火かな

林芙美子

ああ二十五の女心の痛みかな
遠く海の色透きて見ゆる
黍畑の立ちたり二十五の女は
玉蜀黍よ、玉蜀黍
かくばかり胸の痛むかな
二十五の女は海を眺めて只呆然となり果てぬ。
_____「放浪記」より

皆既日食

2009年7月22日に皆既日食が起こった。
皆既日食は、月が太陽と地球との間に来て、太陽面全体が月面で覆われ、日光が完全に遮られる現象である。
日本では実に46年ぶりのことで、今回最も長い時間皆既日食が見られる場所は沖縄諸島であった。次に日本で皆既日食が見られるのは2035年だという。
しかし私は連日報道されている皆既日食のニュースにどうも馴染めなかった。
私は美しいとか神秘的だとかいう感情と同時に、いや、むしろそれ以上に不安な不吉な現象であると感じたのである。
理由は二つある。
一つはそれが全く人間の時間のスケールを越えているためである。人間の時間のスケールを越えるものは時に神話となる。経験として人の人生の間に繋がれる周期にあるもの、例えば一日における昼夜の逆転や、一年における季節の移り変わりや、人の一生における生死などとは違い、皆既日食は周期が長く不規則なため人間の慣習とはなりにくいのである。
もう一つの理由は、皆既日食の瞬間、空が真っ暗になり、気温が5℃ほど下がったことである。明るい空が突然暗黒となり気温が下がるという現象に、皆既日食を知らず、ましてその予測も出来ないようなかつての人間が、恐怖より先に美しいと感じるとは私には思えないのである。
そんな皆既日食よりも、私は毎日の太陽の眩しさや、毎月訪れる満月の美しさに、もっと目を向けた方が良いのではないかと思う。

JA御殿場本店

倫理研究所富士高原研修所

2009/07/13

ブルーノ・タウト

この山(富士山)は、これ以上秀麗な形をもつことができない、―――それ自体芸術品であり、しかもまた自然である。車内の人達は、ほとんどみな私達のように、この山の見える限りいつまでも眺めなまなかった。そうしないのはほんの僅かの人達だけである。

車庫

私の妹はチョコレート色のボディが可愛い、スズキのラパンという軽自動車に乗って、毎日保育園へと向かっている。
私の姉妹はともに保育士である。二つ上の姉は結婚を機に保育士を辞めた。現在は今年で2歳になる息子の子育てに追われながら、新居を構えるため夫と家づくりの勉強をしている。
一方二つ下の妹が保育園で担任をしているのは1歳児たちである。甥と姉夫婦は愛知県で暮らしており、私が甥の成長を見られるのはごく限られた機会しかない。そんな甥の成長を、妹が夕食時に話してくれる園児たちの日常生活での仕草と重ね合わせることは、私の密かな楽しみである。
しかしこの日話題に上がったのは園児たちではなかった。なんでも妹の車によく鳥の糞がかかるのだという。
妹の車は普段我が家の車庫に収められている。
その車庫は桁行4間、梁間2間半で、外壁も屋根もトタン覆われた小さな小屋である。
そのうち桁行1間半は納戸となっており、普段使われない生活道具や、兜やひな人形、鯉のぼりなどが収まっている。
そして鳥の糞がよくかかる部分の真上には太い梁がある。ここに鳥がとまっては、糞を落としているのであろう。
そういえばかつてこの納戸の屋根裏に野良猫が何度も住み着いてしまったことがあった。その猫が子猫を産み出したことに困り、屋根裏は妻壁でふさがれ、それきり猫は来なくなった。
居心地の良過ぎる車庫というのは、なかなか考えものである。

交差点窓の隙間に蝉の声

旧石田家住宅

コアのあるH氏のすまい

2009/07/06

いわさきちひろ

色が変わる宝石なんて、ほんとは人造石なのでしょう。
けれど夫の買ってくれたこの石の色が、少しずつ私の手にあわせて、うつっていくのが生きているようで、不思議な気がしているのです。
_____「わたしのえほん」より

ボルネオ島のイバン族

テレビでジャワ島の河川が増水して家屋が浸水し始めているというドキュメンタリーが放送されたという。
原因は森林や、水上を彩るマングローブの急激な減少らしい。
この時期に頭の毛の薄い人を見ていれば、皮膚から吹き出した汗がそのまま額から頬へと流れていくのがわかるであろう。現在のジャワ島に起こっていることはその現象の尺度を人間の頭から一つの島へと広げた話である。
ただ、人間の頭皮には家屋もなければそこに住む生物もあまりいないようである。さらに流れた汗はタオルで拭えばすぐ解決される。また、人工植毛というものがこの流れ出る汗を食い止めてくれるのか、そして自然増毛というものが医学的に可能なのかは、興味深い問題である。
私が2007年の7月から8月にかけて訪れた、マレーシア・ボルネオ島に住むイバン族の村では、森林減少の二つの大きな要因を目の当たりにすることができた。
それは焼畑農業と森林伐採業である。この二つは彼らの重要な生業となっている。特に森林伐採業は、現在私たちが住む木造住宅の柱や梁として利用され、我々と全く無関係ではない。
私と仲間が村から去る時、イバン族の人たちは数十メートルある川の対岸から泳いで追いかけてきてくれた。我々はそこで涙の抱擁をし、最後の別れをすることができたのである。
もしあの時川が増水していたら、今もこの胸に残っている感動は、なかったかも知れない。

床を這うそよぐ涼風水はらみ

オビドスの城壁

林芙美子自邸

2009/06/29

チャールズ・チャップリン

見上げてごらん。人の魂には翼があったんだ。
やっと飛び始めた。虹に向かって飛んでいる。希望の光に向かって。
すべての人の輝く未来に向かって。
見上げてごらん。
_____「独裁者」より

東一組一班長

父は現在、私達家族が住んでいる地域の班長である。正確には東一組一斑長という。
そのため玄関には「東一組一斑長」という札が下げられている。
この東一組一斑は80軒以上で構成され、二世帯住宅もあるため、世帯数はそれよりさらに多い。
アパートや借家住まいは、全体の半数以上になると母は言う。
班長としての仕事は回覧板や班費の回収、その経理はもちろん、地域の運動会やバーベキュー大会の準備、年に二度の道普請の調整など多岐に渡る。街灯が消えたと班の方から電話を受け、区長か組長へ報告することもあった。
先日班の方が一人亡くなられ、日曜から月曜にかけてお通夜と告別式が行われた。
父はその前日の土曜から月曜まで銀行員である自分の仕事を一切休んで、お通夜と告別式の段取りと役割分担に動いていた。
しかし最近の傾向にもれず、自宅ではなく葬儀場を借りて葬儀を執り行ったので、父の仕事は格段に少なかったという。母がお手伝いで調理場に立つようなことはほとんどなかった。
この街には6か所ほどの葬儀場があるが、私がかつて体験した祖父と祖々母の葬儀は自宅で行われたのを思い出した。今後家族に不幸があった時にどうなるのかはわからない。
お通夜の前日の夕食時に、祖母は亡くなった方の人柄について、私たち孫に話してくれた。
それを聞いた私は、その方の顔をはっきりと思い浮かべることができなかった。
そんな私は、東一組一斑長の息子である。

紫陽花に奥歯に水がしみにけり

ちひろ美術館・東京

卒業旅行行程図

2009/06/22

吉田五十八

私はまず、数寄屋建築の近代化から手をつけてみようと考えたのであります。
ということは、従来の日本建築のうちでは、数寄屋が一番近代化されており、現代生活に引きもどしやすいと、考えたからです。

御殿場市立図書館

梅雨の長雨が続く午前9時過ぎ、私は母の白い軽自動車を運転して市立図書館へ向かっていた。
毎月第3日曜日は、市立図書館で除籍になった書籍を広く市民に還元する、リサイクルブックデーである。
20冊を限度に無料で書籍が手に入る今日は、私にとって月に一度の楽しみとなっている。
実はこの日が楽しみな訳は、単に本が手に入る事だけではなく、図書館がこの街で唯一かも知れない、北欧の光を体験出来る場所だからである。
北側のハイサイドライトによって満たされる、書架スペースの静かな光は、特に曇りがちで周囲の照度が低い時に強調される。
しかしこれは、北欧に訪れたことのない私の感覚ゆえに、甚だ説得力に欠けるものであろう。
一度この市立図書館の断面計画と、アルヴァ・アールト設計によるフィンランドでの作品群の断面計画とを比較しなければなるまい。もちろん日本とフィンランドの緯度の差による、太陽の位置や光の強さは、考察に不可欠な要素である。
そんなことを考えながら開館前に市立図書館へ着くと、すでに2、30人程が並んでいた。
そして開館になり中へ入ると、除籍になった本の棚に群がる人々と、雨で濡れた服と、汗と、古ぼけた本の匂いで、私はすっかり参ってしまった。
この時だけは、全く梅雨時の日本そのものであった。

梅雨晴や友と語りし窓の外

林芙美子自邸

ちひろ美術館・東京

2009/06/15

枝を切り喜雨の様に出る汗涙

カルロ・スカルパ

もし私が2mの幅の廊下を設計するのならば、打放しの床仕上げにするだろう。
もしそれが、1.5mの幅ならば、左官仕上げにしなければならない。
また1mの幅であるならば、上塗り仕上げの上に塗装仕上げをするだろう。
それが80cmの幅ならば、スタッコ塗りの秀れた職人を探しに行かなければならないだろう。
そして、50cmの幅であったならば、きっと黄金の仕上げにするだろう。

サッカーとキャッチボール

時々弟と家の裏手の芝生でサッカーボールを蹴る。
幼稚園に入る頃から何となく独りでボールを蹴り始め、小学校のサッカーチームに所属したことで私のサッカー人生が始まった。
野球好きのおじからもらったグローブは全く使われず、毎日夢中でボールを蹴っていた。そして気がついたら中学三年の六月に過度の練習の為、体が悲鳴を上げてしまった。一年半走れなくなった。
高校や大学でもサッカーは断続的に私の周囲に存在していたが、中学までの情熱は嘘の様に冷めていた。
当時何故あれほどサッカーに熱中していたのか。実は、試合よりチームでの練習より、私は独りでボールを蹴っている時間が好きであった。
私はチームが同じ目標を共有する事以上に、私とボールだけの、自由にイメージが広がっていく感覚を求めていた。ただ、それが結果的にチームの勝利というものにかろうじて繋がっている事は、とても重要であった気がする。
しばらく忘れていたその楽しみは、今では建築というものに取って代わった。
それは、建築が皆と共感を得なければつくれないものであるにもかかわらず、自己の内側へ籠り、自由にイメージを膨らませることができるという、以前と同じ喜びを感じられるからかも知れない。
しかしかつてのように、走り過ぎて体が悲鳴を上げてしまう事だけは、繰り返したくない。
そのためには、過去に放り投げてしまったグローブをつけて、誰かとキャッチボールを始めるのが良いように思う。

倫理研究所富士高原研修所

南の家

2009/06/08

私の部屋

私の部屋には、北側と東側に窓がある。
毎朝布団から起き上がらずにこの二つの窓を覗くと、空だけが切り取られている。
布団をあげてそこへ置いた長椅子に座っていると、東側の窓からは竹藪が、北側の窓からは富士山が見える。
椅子に座り机に向かっている時、ふと窓を眺めると今度は芝生と欅と柿の木と茶、そして周囲のアパートや家々が顔を出し、かすかな川の流れを感じる。
また部屋の中で立ち上がると、今まで隠れていた手前の畑や、軒先で休んでいる祖母の存在に気づく。
この二つの窓は、私の位置によって様々な景色を映し出してくれる。
と同時に、窓の外の世界も日々刻々と変化していることを、布団から眺める空や長椅子と向かい合う富士山が教えてくれる。
私の部屋の窓は、そんな窓である。

弟の日焼けで火照る寝顔かな

村上春樹

「巨大さってのは時々ね、物事の本質を全く別のものに変えちまう。
実際の話、そいつはまるで墓には見えなかった。山さ。」
_____「風の歌を聴け」より

ソーク生物学研究所

タウンハウス三田201号室

2009/06/01

サン・テグジュペリ

ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。
理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。
_____「人間の土地」より

建築家との手紙

ある建築家に手紙を送った。
その建築家が求めているのは、時間や関係や状態といった、かたちではないものである。
同時にその建築家は、「具体的な寸法・材質・構造・色をもった、目に見えるかたちをつかって表現しなければ、建築をつくれない」ことをよく知っている。
ほどなくしてその建築家からポストカードが届いた。
ポストカードに描かれていたのは、19世紀後半から20世紀初頭のデンマークの画家、ヴィルヘルム・ハンマースホイによる風景画であった。
偶然にも私は彼の描く人のいない風景画と室内画、そして彼の妹と妻の肖像画に強く惹かれていた。初めてハンマースホイの絵を見たとき、彼のまなざしを、そのままこの身に引き受けたいとさえ思った。
私はすぐにその建築家へハンマースホイの室内画が描かれたポストカードを送った。
私はその建築家と画家のことが、また好きになった。

狩野川や祭りの音も近寄らず

小淵沢の渓谷

寛閑居

2009/05/25

田園調布

五月の陽射しが眩しい土曜日の午前、田園調布駅前の日陰に座っていると、ロータリーに高級車が何台も通っては停まっていくのが目についた。

の車から降りてくるのはたいてい女の子で、バレエの衣装を着ていたり、テニスのラケットを肩に下げたりしているのが目につく。
さらに目につくのは降りるときの彼女たちと見送る親の無表情さである。
その後歩いた田園調布の街はイチョウ並木の緑が鮮やかであったが、その街路と家との間には、何か隔たりのようなものが感じられた。
この街の雰囲気と駅前ロータリーの光景には何か関連性があるのであろうか。
そんなことを考えていると、私は、今朝父親が私と妹を地元の駅まで、車で送ってくれたことを、ふいに思い出した。
その時の光景を見て、私の家の前を通ったことのある人がいたら、その人は私たち家族の生活をどのように想像するのか、私は気になった。

光庭家と露台に現れり

山田かまち

虹のように消えてゆくきょうも
午前0時で明日につながっている。

玉川田園調布共同住宅

ウィルヘルム・ハンマースホイの家

2009/05/18

嵐の夜莢豌豆も倒れけり

宮沢賢治

二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。
「クラムボンはわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
「クラムボンは跳ねてわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
_____「やまなし」より

恩師

週末に大学の恩師と会うため、新百合ケ丘の自邸を訪ねることになっている。

恩師は建築家であり、フィールドワーカーである。
大学四年から大学院を卒業するまでの三年間、私は恩師と対話を、文字通りの言葉と言葉による対話を、あまりしてこなかった。
その理由は対話の相手が常に研究対象そのものであったからだと、自分には言い聞かせている。しかし実際は私が恩師と対話する言葉を持っていなかったからであろう。
そんな仲ではあったが、これまでに私は恩師から幾つかの言葉を頂いた。それはこんな言葉であった。
「近代化は不可逆である」「設計に正解はない」「環境が人を変える」
また私個人に対して恩師はこのように評された。
「君は大正時代の子供である」「君は観念的である」「君は労働の分配が出来ない」
そして卒業時に恩師が私に与えてくれた言葉は、「自己と他者のあいだ」であった。
これらの言葉には、恩師と私とその関係と研究室での三年間が、濃密に圧縮されているように感じる。
次に会うときは私から恩師へ、言葉を贈ろうと思う。そしてそこから対話が、穏やかに始まっていくことを願っている。

ディズニー・コンサートホール

フィッシャー邸

2009/05/11

茶摘み

四月の終わりから五月の初めにかけて、家の周囲で最も若葉の黄緑色が目立つのは、柿と茶である。

毎年この時期に休日一日を使って、我が家では茶摘みをおこなっている。
茶の木々は、家の裏手の芝生を囲うように植えられており、生垣としても機能している。いわゆる茶畑と呼べるものではない。
我が家の茶にはザイライとヤブキタという2つの品種があり、樹齢の問題、品種の問題からヤブキタの方がこのところ勢いが良い。今年は合わせて46kgの茶葉が摘めた。
久しく茶摘みなどしていなかった私は、集まった親戚たちの摘み方を見様見真似するしかなかった。
すると、人によって摘み方にかなりの違いが見受けられた。
ある二人の男性は、両手で乱雑に摘んでいた。むしろ毟っているといった方が正確かも知れない。籠の中はすぐに一杯になっていく。
隣の家のおばあちゃんは、枝の一本一本を丁寧に持ち、脇に生えている茶葉まで摘んでいた。
伯母はただ一人逆手で茶葉を迎え入れるように摘んでおり、茶葉が摘まれる瞬間の挙動がとても小さかった。
後の二人が摘んだ茶の味は、前の二人とは違ったものになるだろうと思う。
しかし後の二人を真似て摘んだ私の茶の味は、摘み方同様、二番煎じになるだろう。

風に揺れ水面に映える早苗かな

篠原一男

装飾することのむずかしさは、機能主義の無装飾主義とは比較にならないことはいうまでもないだろう。
合理主義・機能主義は、いわば、頭脳の作業であった。
しかし、装飾空間はもっと本能的・肉体的なもの、すさまじい人間情念の作業による芸術であるからだ。
_____「住宅論」より

浮月楼