2009/08/31

中沢新一

わたしたちの人類の発生の瞬間に脳の構造が変わって、そしてその中に縦横無尽に心の流動体を動かすことができるようになった時、見えるようになったもの。
これこそが最初の神であり、精霊である、というのが、ぼく自身が教わったことでした。

タイ調査日記


以下はタイ北部の民家及び集落調査の際に書いていた、滞在記の抜粋である。当時私は柄にもなく調査隊長であった。改めて読むと、そのことが良くも悪くも文章に表れているように思える。

2008.09.13
朝0530起床。涼風が吹いている。メーモン村最終日だがあいにくの雨。朝焼けは見えず。正木以外は畑の方へ出かけたが、残念。栗原さんは満足のいく写真が撮れたであろうか。0700に最後の食事を済ませ、荷作りをしたあとそれぞれの時間を過ごす。ノートにこれまでの畑研調査を書き出してみると、私は計10回の調査に参加したことになるのがわかった。走り続けた3年間であった。
雨が止み、0836にカンポンさんがピックアップトラックで迎えに来る。皆で記念撮影をし、出発。帰りは下りのためか、45分程でさくら寮に到着。伊藤と斉藤は調査の最中であった。
早く着いたので、昼食前にシャワーを浴び(水浴び)、1130昼食。やはりさくら寮の食事は美味しい。1330に空港へ栗原さんと3年生を見送りに行き、そのまま4年生のバスのチケットを買いに。明日1500発のチケット。直接帰らずコーヒーを飲み、トゥクトゥクでさくら寮へ戻る。そういえば3年生はトゥクトゥクに一度も乗っていない。
夕食。散歩。美しい景色と子供達。広場で遊ぶ。子供の頃に戻った気分。1930チェンライのナイトバザール。お土産を選ぶときに日本に居る人達の顔が浮かぶ。さくら寮戻。小澤と斉藤「さよならバス」歌う。私は先に就寝。

高鳴りを抑えて聞こゆ秋の川

常盤台写真場

モン族の住居

2009/08/24

夏の朝宮城の路地にカラス吠え

鴨長明

魚は、水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。
鳥は、林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。
閑居の気味も、また同じ。住まずして、誰かさとらん。
_____「方丈記」より

新婚旅行のお土産

今年の五月に結婚した私の元ルームメイトから、新婚旅行のお土産が届いた。
旅行先はモロッコだという。なんでも二人の希望する旅行先で唯一重なった場所だそうだ。
このお土産は現地から送るつもりだったが、滞在拠点から郵便局までが遠く、しかも気温が50℃という状況下のため断念したという。結局帰国後に送ってくれたのである。
小包の中には、モロッコのポストカード、モロッコのスーパーで市販されている日付スタンプ、モロッコの新聞と、高木正勝というアーティストのCDが同封されていた。
その中でも新聞に印刷されている、アラビア文字のフォントの美しさが目立っていた。
アラビア文字が右から左へと読んでいくものであることは、宮崎駿の映画「紅の豚」の冒頭で初めて知り、同じ内容の文章を書くのに、アラビア文字が一番多くの文字を使っていたのも印象的であった。
その新聞をよく見てみると、数字の部分だけは左から読むようになっていることがわかる。一体どういう目の動きをして読むのであろうか。
しかしモロッコ人からすれば、日本語のように縦書きも横書きも表現できる言語の方が、余程不思議なものに見えるのであろう。

松島

龍宝寺

2009/08/17

昭和天皇

世の中に雑草という名の植物はない

答志島のゴミ出し

外の日差しの強さが否応なく去年訪れた伊勢湾・答志島を思い出させた。
しかしカレンダーを見ると去年の答志島滞在から一年と2週間が過ぎていることに気付く。
現在の住まいである静岡県御殿場市と三重県答志島は同じ東海地方だが、御殿場市ではあの路地空間から直角に差し込んでくる太陽や、路地から家へゆっくりと入ってくる潮風は存在しないのである。
答志島滞在中、島民のゴミ捨て日の光景を見る事ができた。
朝七時に大きな切妻屋根の倉庫の中へ、集落の人々が一斉に突撃し、細かく分別していく。
仕分けをする役の人たちが10~20人程おり、可燃ゴミ以外に、ペットボトル・発泡スチロール・紙・プラスチック・アルミ缶・スチール缶・電球・電池・ビン類・その他缶類と書かれた札が下がっていた。
分別の際の皆の手際の良さと勢いは、一度見なければわからないであろう。
そのくらい、離島で発生したゴミの処理は重要なものなのである。
答志島の共存の仕組みはセコと呼ばれる路地空間とそれにつながる住居に表れていると語られてきた。
しかしその日の朝、私はこのゴミ捨て場である倉庫に、朝日に照らされた聖堂を見出し、赤鉛筆でスケッチをしていた。

セミ暑しコオロギ涼しや昼と夜

モン族の住居

イバン族のロングハウス

2009/08/10

金子みすゞ

ほこりのついたしば草を
雨さんあらってくれました。
あらってぬれたしば草を
お日さんほしてくれました。
こうしてわたしがねころんで
空をみるのによいように。
_____「お日さん、雨さん」

地震

全身に何かを感じ目が覚める。外はまだ暗いようだ。急いで上半身を起こし、周りを見渡す。布団からは出ない。本棚の上に置いていた小さな額が倒れる。部屋がミシミシという音を鳴らす。ついに来たのかも知れない。この部屋でこれほど軋むのは初めてである。これで東海地震が終わるのなら、揺れきって欲しい。地震が収まって、部屋を出る。向かいの部屋の妹が出て来た。母も出て来て、居間へ。弟は部屋から出ず、起きているかもわからない。祖母も座敷から出て来た。急いでテレビをつける。どの局でも地震の速報をやっている。対応が非常に速い。
父は前日から予報されていた台風で電車が止まるのを恐れて、職場のある熱海に泊まっていたが、結局台風は逸れてしまい、代わりに地震で電車が止まることになった。妹は仕事へ出るまでの時間が中途半端に空いてしまい、二度寝するか迷っている・・・。

2009年8月11日午前5時7分に、駿河湾沖を震源地とするマグニチュード6.5の地震が起こった。気象庁の発表によると、今回の地震は東海地震ではないという。
上の文章は、その地震の際に私が静岡県御殿場市で体験した、震度4の記述である。もし震度6や7といった地震が起きた時この記述がどのようになるのか、一度想像してみることは決して無駄ではないであろう。

真夏の日溝のセメント白かりし

海の博物館

オーイ族の住居

2009/08/03

夏目漱石

爽颯の秋風縁より入る。嬉しい。生を九仞に失って命を一簣につなぎ得たるは嬉しい。
生き返るわれ嬉しさよ菊の秋

万緑で隠れし家に赤子かな

小田急線

雨模様の日曜日、新宿駅から小田急線の最後尾の車両に乗っていた。
そこへ韓国人と思われる家族が乗車しているのに気づいた。
服装の雰囲気と、話している言葉、そして箱根観光のパンフレットに記載されているハングルの文字が何よりの証拠である。
父、母、姉、妹と叔母らしき5人は、最初全員立っていたが、席が空く度に順番に座っていった。
最初に座ったのは父である。娘の鞄を膝に載せてあげている。次に隣の2席が空き、母と叔母が座る。その後一人の日本人を挟んで姉が座り、父の向かいの席に妹が座る。それから妹の隣へ姉が移り、さらに姉妹で端の席へ移動し、最終的には5人全員が一列に並んで座った。
辺見庸の著書「もの食う人びと」に、儒教の食事作法は「先食後已(先に食し後に已むなり)」だと書かれている。客がいるなら主人側が、親子なら子の方が、先に箸をつけるのが礼儀であると。また、熱すぎないか冷たくないか、腐っているか毒などないか自らの口でチェックしたうえで「どうぞ」と食事を勧め、客や親が満足して箸を置くのを見届けてから主人や子が食事を終える。これが主人の客への礼であり、子の親への孝なのだとも書かれている。
食事の際の座席の配置や序列などについてはその本ではわからないが、この韓国に伝わる儒教の食事作法と、私が見た韓国人家族の一連の所作との関連性は、日本人との比較なども含めて、興味が尽きないように思われる。

神奈川県立近代美術館・鎌倉館

阿佐ヶ谷の家