冬の穏やかに晴れ渡る午後に、息子二人と私の三人で、御殿場にある「とらや工房」を訪れた。
目線を池のほとりで遊ぶ息子たちから建物の軒先へ向けると、仕事で付き合いのある男性が立っているのに気付いた。
よく見るとすぐそばのベンチに奥さんと思われる女性が座っている。
実は彼から先日、妻が癌で入院をしていると聞かされたばかりであった。
実際にはわからないが、ニットの帽子を深く被っていることで、抗癌剤による治療を連想してしまった。
声を掛けずにしばらく見ていると、男性は女性の隣にやさしく座った。
女性はゆっくりと、大きな背伸びをしながら、冬の日差しをたっぷりと浴び、男性は庭とその先にある太陽を、じっと見つめていた。
私が忙しなく動き回る息子たちと付き合っているうちに、夫婦は居なくなってしまった。
その後私は夫婦が座っていたベンチに腰掛け、同じように背伸びをし、庭先を見つめてみた。
私の目の前には、暖かな日差しと、庭で楽しそうに駆け回る息子たちが映る。
同じ日の、同じ軒下の、同じベンチに座る、別々の人間。
別々の人間に差す陽の光は、みな同じように暖かいのだろうか。
2017/01/29
2016/10/24
今朝
今朝、私の心は弱っていたけれど、窓から見える富士山は、雲一つなく、凛として佇んでいた。
今朝、私の心は弱っていたけれど、外を歩くと鳥たちが静かにさえずっていた。
今朝、私の心は弱っていたけれど、自動販売機で買った缶コーヒーから、異国の匂いがした。
今朝、私の心は弱っていたけれど、コンビニで買ったサンドイッチのレタスが、妙にシャキシャキとしていた。
今朝、私の心は弱っていたけれど、陽光に包まれほのかに体があたたかかった。
私の心は弱っていたけれど、こんなにいろんなことを感じられる。
それは弱っていたから感じられたのかも知れない。
あるいはそれは、まだまだ弱っていなかったから感じられたのかも知れない。
2016/06/26
音楽と建築と文様
最近妻がアラベスクでアクセサリーを製作しております。
製作を通してアラブ音楽との関連性について検証しているようです。
たまたま私が、設計している建築用に日本の草木文様を作図をしていた為、アクセサリー製作の下絵となるアラベスクも作図することになりました。
文様の写真等を見ながら幾何学的なルールを把握し作図することで、様々な事を考えさせられています。
しばらくは夫婦揃って、音楽と建築と文様における、日本とアラブの差異と同一について、思いを巡らすことになりそうです。
製作を通してアラブ音楽との関連性について検証しているようです。
たまたま私が、設計している建築用に日本の草木文様を作図をしていた為、アクセサリー製作の下絵となるアラベスクも作図することになりました。
文様の写真等を見ながら幾何学的なルールを把握し作図することで、様々な事を考えさせられています。
しばらくは夫婦揃って、音楽と建築と文様における、日本とアラブの差異と同一について、思いを巡らすことになりそうです。
2016/05/09
子供用の合板椅子
GWを利用して、恩師が設計した子供用の合板(ベニヤ)椅子を製作しました。といっても墨出し以外はお世話になっている大工さんの力をお借りしました。ディテールは私自身で調整して、合板という工業的に制御され、方向性や狂いが少ない材料を、3×6サイズ1枚で、金物や接着剤を一切使用せず組立・解体が容易に出来ることをコンセプトにしました(恩師がどのようなコンセプトで設計されたかは把握していません)。また同じ仕組みでアールトのスツールと同寸法の合板スツールもオリジナルで作成してみました。合板という材料を使用した椅子ではイームズのLCWなどがあり、座り心地では当然LCWに軍配が上がりますが、恩師の設計の方がある意味合板という素材の本質を突いているかも知れません。完成した後で思い立ち、我が家にある木製の椅子たちを並べて記念撮影。北欧のデザイナーズチェアから大のお気に入りである宇納さんのエンフィールドセッティや、ラオスの民家でもらった竹製の座椅子、段ボール椅子など、どれもそれぞれの素材、構造、加工技術と真摯に向き合い、人間が座ることを考えた、素晴らしい椅子たちだと思います。学生時代から集め出したこの椅子たちを、いつか息子たちに譲るのを楽しみにしながら、大切に育てていきます。
2015/10/28
VernacularとInternational
学生の時に研究室のゼミで書いたと思われる文章が見つかりました。
当時の勢いに任せたこじつけの論理なのが恥ずかしいですが、これも当時の自分の一側面だと捉えて、以下に掲載します。
VernacularとInternational
私が誤解を恐れずにこのVernacularという言葉を定義付けするなら、
Vernacular ⇔ International
である。今回はこの視点を保ちつつ、論考していく。
人類がはじめて誕生した時、その瞬間に、Vernacularなものが生まれていたのか・・・。
私はそうは思わない。むしろそこには、Internationalと呼べるものが存在していたのではないか。
人類が世界のあらゆるところで造った最初の建築は、竪穴式住居だと言われている(藤森照信)。それもプランは限りなく円形に近いものがほとんどである。
「屋根は被覆。壁は言語。」
これはアドルフ・ロースの言葉を丸山先生が独自に訳したものらしい。
竪穴式住居の写真を見たとき、これが屋根は被覆であることを完全に証明したものだと思わざるを得なかった。それは文化の差異を越えて、生物学的に必要な要求、つまり必然だったのだ。
しかし、それ以上に驚くべきは、壁が存在しないことである。つまり、人類が最初に誕生した時、その瞬間に、彼らには壁=言語が存在しなかったことになると言えるからだ。
つまり屋根が必然であるなら、壁は人間の可能性だといえる。
言語というものは、文化人類学者たちが最も力を入れている分野である。それは言語が文化というものを最も明快に表出しており、また、最も原始的な文化の表出が、言語だからに他ならない。その文化の表出である言語=壁が誕生していない、というのは、
壁=言語=文化
とすると、
→ 壁が存在しない=文化が存在しない=文化の差異が存在しない=International
と証明することができる。
さらに最初に言ったように、Vernacular ⇔ Internationalとするならば
→文化が存在する=文化の差異が存在する=Vernacular
ともいうことになる。
ここで、朧げにVernacularとInternationalというものの輪郭が見えてきた気がする。
VernacularとInternationalというものは、同じなのだ。モノとモノとの間に生まれた差異が、文化となって表れているのであり、それをVernacularと呼び、共通している部分をInternationalと呼んでいるのだ。
それでは、現代にVernacularなモノは存在しているのか。さらに時間と空間の堆積が行われているのか。いや、そうではないだろう。
その考えを決定づけるモノがModernismである。
Modernismというのは、Internationalなモノであり、時を越えて表れた竪穴式住居なのだ。
そうすると、Modernismの屋根と壁はどうなっているだろうか。Modernismの屋根はフラット。この形式は全世界共通である。しかし壁は存在すると思うだろう。そこでドミノプランを思い出してほしい。それはコルビュジェが考案したもので、Modernismの理念を簡潔に表したものである。屋根はフラットで統一され、そこに壁は存在していない。
しかし実際には壁は存在する。だが実際に存在するModernismの「壁」の多くが、機能性や合理性だけを手がかりにしている以上、それはここでいう「壁」ではないと言えるのではないか。それは必然であり、可能性ではないからだ。
Planを描くとき、屋根は載らないが壁は載る。
コルビュジェもこう言っていた。「planは駆動力である」と。
ただその可能性が「免罪符」になっているような気がする。その方向が正しいのかどうかはわからない・・・。
私はモノの存在に対し、優劣をつけるということは絶対にしたくない。しかしもし誰かがVernacularなモノがInternationalなモノに劣っているというならば、私はその人に対して、Vernacularなモノの方が優っていると明言する。それはもともと存在したInternationalなモノから徐々に、時には突発的に、その時間と空間の堆積によって育まれたモノだからだ。
Vernacularなモノが人類の中での文化的差異になるのに対して、Internationalなモノは、例えるならば、サルとヒトとの差異になるのではないか。
Internationalは「ヒト」の住居、Vernacularは「人間」の住居
もしこれを人類の進化・進歩だとするのならば、ModernismというInternationalなものが、前近代と近代以降のヒトを分けるものとなり、我々は進化・進歩した人間となったというのか。
しかしもしそうであれば、我々畑研究室がやっていることはなんなのだろうか。ヒトがサルを調べるように、近代以降の新人類が、旧人類を調べているだけのことなのか。
これから我々はVernacularに向けて歩きだすべきなのか。Internationalなままで行くべきなのか。それとも新たなInternationalを創出すべきか。私には未来の輪郭はまだ見えない。
2015/10/06
清水先生へのメール
清水先生
早速のお返事ありがとうございます。
建築工学科は設立して50年経つんですね。畑先生から昔何となく設立の頃の話を聞いた覚えがあります。
記念行事そのものには特別な感情はありませんが、建築工学科という存在にはちょっと思うことがあります。
個人的な見解ですが、文系学部廃止などの流れを考えていきますと、建築工学科はある意味文系の空気を孕んだ理系学科として、隠れキリシタンの受け皿のような存在になっていくんじゃないでしょうか。
現代は善悪の判断が一瞬で反転し、右と左、あるいは前と後ろのどちらに向かえばいいのか分からないことが、これから更に増えると思います。
そんな時に、土地とモノと人について、時にフィジカルに、時にメタフィジカルに接し考えることの出来る建築工学科という存在は、とても重要になってくるのではないでしょうか。
少なくとも私にはそうでした。そしてそういう感覚を共有できる仲間ともそこで出会えました。
私の年代と後輩達とはSNS等で広く(浅く?)繋がっていますので、ヤフーメールのアドレスリストに載っていない人とも連絡出来ると思います。
記念行事に関して何か手伝えることがありましたら連絡下さい。
次回のさくら関係のイベントか、畑先生の別荘でお会いしたいです。
それでは、失礼します。
2015/09/12
秋の夜
昨晩、台風で洗われた空の星達を眺めに、妻と息子の4人で、富士山の御殿場登山口まで行きました。
それぞれが何かを感じ、それぞれが何かを感じているという事を共有する。
写真にはうつりませんでしたが、後々まで心に残る風景とは、この星空のようなものではないのか。
そんな想いに耽る、秋の夜でした。
それぞれが何かを感じ、それぞれが何かを感じているという事を共有する。
写真にはうつりませんでしたが、後々まで心に残る風景とは、この星空のようなものではないのか。
そんな想いに耽る、秋の夜でした。
2015/07/27
子供の夜泣き
長男がまだ一歳になる前の話である。
子供が夜泣きする姿を見て私は
「何故子供は眠くなると泣くのだろう」
と妻に尋ねた。
「子供は眠るのが怖くて泣くのだよ」
と妻は答えた。
今まで子供について色々と妻に尋ねてきたが、これより恐ろしい答えは無い様な気がする。
子供が夜泣きする姿を見て私は
「何故子供は眠くなると泣くのだろう」
と妻に尋ねた。
「子供は眠るのが怖くて泣くのだよ」
と妻は答えた。
今まで子供について色々と妻に尋ねてきたが、これより恐ろしい答えは無い様な気がする。
2015/05/19
Re:美しい環境
学生の頃、丸山先生が造形理論の演習で作った造形物を見て「緊張感があるか」という視点で評価をしていたのを覚えていますか。
そしてその「緊張感」という評価軸が、決して個人的な、あるいは主観的な評価ではなく、客観的に、あるいは皆と共有した評価になりうるとおっしゃっていてことを。
当時の私はこの手の作品で評価されたことが全くなく、一方ポルコは「何となく」造った作品が「確実に」評価されていて、いつも羨ましかったのを思い出します。(ポルコが良い作品を造るときは、必ず「何となく」造りはじめて、それが「何であるのか」「何であったのか」後から理論を肉付けしているような気がします。(これはおそらく私だけが知ってる秘密))
おそらくそんな頃から、自分はまずは「眼」を養おうと思い始めました。
さて、ポルコのいう「バランス」と、丸山先生のいう「緊張感」は、私がこの10年以上養ってきた「眼」を通してみると、同じことを言っているような気がします。
「水槽の中」と、「造形作品」の違いはただ「生物」と「無生物」、あるいは「動的平衡」と「静的平衡」といった違いであると思います。
どちらもある「閉じられた系」の中における「バランス」が重要であると。
私が今考えているのは、「建築」によってその「閉じられた系」をいかに大きく広げられるか、もしくは「閉じられた系」同士をいかにつないでいくか。
そして「建築」におけるバランスとは、受け売りですが堀部安嗣さんの言葉を借りれば、「悲観と楽観、倫理と芸術、安全性、金額、機能性の高低」等のバランスであり、意匠が飛びぬけていたり、経済性ばかりに囚われていてはいけないのだと考えています。
長くなりましたが、ポルコが自身の水槽を見つめながら「何となく」感じたことを「何であるのか」考えている姿に、学生時代のポルコを重ね合せてしまいました。
それでは、また。
2015/05/01
Re:骨董品の入門書
この間はお疲れ様です。子供のペースに巻き込んでしまいましたね。
骨董品、茶というキーワードが出てくると、柳宗悦さんの「茶と美」という本を思い出します。
かれこれ十年ほど前に読んだ本なので、今読むとどう感じるかわかりませんが、当時はかなり影響を受けました。
大学3年の時、図書館にこもり、希望する研究室に思いを馳せながら読んでました。
今度お茶の指導をしてください。それでは。
骨董品、茶というキーワードが出てくると、柳宗悦さんの「茶と美」という本を思い出します。
かれこれ十年ほど前に読んだ本なので、今読むとどう感じるかわかりませんが、当時はかなり影響を受けました。
大学3年の時、図書館にこもり、希望する研究室に思いを馳せながら読んでました。
今度お茶の指導をしてください。それでは。
2015/01/30
村上春樹さんへの質問
明日で期間限定で行われている、村上春樹さんへの質問メールが締め切られます。
色々悩みましたが、悩んでいるばかりで質問の文章が一向に書けません。おそらく、私には村上春樹さんに質問する必要がないのでしょう。
めでたしめでたし。
色々悩みましたが、悩んでいるばかりで質問の文章が一向に書けません。おそらく、私には村上春樹さんに質問する必要がないのでしょう。
めでたしめでたし。
2014/01/08
外庭型住居圏としての日本の住まい
住環境計画特論レポート2007/07/19
「外庭型住居圏としての日本の住まい」
住環境計画研究室 507055
住環境計画研究室 507055
今回与えられたテーマに際して、「日本」というキーワードが漠然としているように感じられてならない。今回はその言葉の定義から始めなければ、「日本」の住まいを語ることはできないだろう。それを畑教授のいう中庭型・外庭型住居に照らして考えたい。
畑教授の講義では、チュニジア(中庭)・マレーシア(外庭)・タイ(外庭)・韓国(中庭)・台湾(中庭)の住居及び集落の事例が紹介された。日本から地理的に離れた地域から紹介し、回を追うごとに日本へ近づいていく講義の中で、畑教授が対比する中庭型と外庭型住居の事例が交互に扱われてきたのを印象的に感じる。私はこの課題において、我々自身で日本の住まいを、これまでの事例によって相対化することを問われていると捉えた。では比較対象とするための事例をどう選択したら良いのだろうか。またプレモダンの住居を比較する中で、これからの住まいを語ることができるのだろうか。少なくとも、これまで講義で扱った事例がプレモダンの住まいであるため、日本に関してもプレモダンの住まいを持ち出すのが常であろう。しかし、その住まいの形をプレモダンとして一括りにするには、日本において地域ごと、時代ごとでその住様式が多岐に渡っており、どれか一つを持ち出し、それを日本の住まいとしてしまうことに疑問を覚える。宮本常一氏によれば、かつては土間住まいと床住まいの家が別々に存在していたり、土間と床が一つの家屋に併存したりと、同じ日本でも家屋の形式は異なって存在してきた。また、日本のプレモダンの家屋を語る上で、よく「客間」の存在が挙げられるが、家々が客間として座敷をもつに至るには、生活の向上と変化があったとされている。それは一般民家が客を迎えなければならぬ行事を多くもつようになったことに原因し、座敷をもつことによって一人前の村つきあいができることになるのである。民家へ座敷が浸透するのは室町時代以後と見られており、それまで神のまつりを庶民の家でおこなうことはすくなかった。つまり、客間とて日本のプレモダンに共通する空間言語とは言えないのである。
これまでに挙げたような日本の住居の多様性は畑教授が挙げた海外の事例地域においても同様な事が言えるだろう。しかしそれは畑教授が、引用している鈴木秀夫の論に依っていることを理解すれば、これまでの講義で扱った事例が気候分布(地理的条件)と文化圏(思考的条件)によって捉えられ、地域を区切る便宜上の概念として、国名が挙げられているに過ぎないことがわかる。そしてそのように日本をみると、鈴木氏がいうように日本が森林的思考の気候分布・文化圏に属しており、日本におけるプレモダンの様々な住居を一括りに「外庭型」と位置づけられることがわかる。つまり中庭型・外庭型と対比させて述べる際には、「日本」という枠組みを越えて、風土と文化の領域で捉えることが重要である。現代のグローバルな社会においては、そのようなものの見方をしないと論点を見失う可能性があり、「日本」ではなく「外庭型住居圏」として考えなければならないだろう。
一方で、森林的思考をもつ日本において、思想の砂漠化が起こっていると鈴木氏は述べている。これは西洋文明の流入による「進歩」思想であると同氏はいう。もともと森林的思考・砂漠的思考というものは、かならずしも森林に住むか砂漠に住むかによって分かれるのではなく、森林的思考(たとえば仏教)の中に育ったか、砂漠的思考(たとえばキリスト教)の中に育ったかということによるもので、自然→思考様式→人間、すなわち、自然によって生まれた思考様式をうけ継ぐことによって人間が自然にかかわっているのである。しかも思想は、それ自身の論理の力によって動くため、かならずしも現在の自然環境と対応して、森林的思考と砂漠的思考が存在しているのではなく、むしろその起源は、5000年前の砂漠化によって一神教が確立された時にあると言われる。しかし畑教授が挙げた事例においては、中庭型住居が砂漠以外の土地に存在する例はある(台湾の三合院)が、外庭型住居が砂漠地帯に流入している例は見られない。
砂漠的思考はヨーロッパ文明の拡大とともに急速に地球の上に拡がってきて日本でも思想の砂漠化が進行してきている。70年代から盛んに叫ばれている、地球そのものが「有限」であるという科学的な事実は、もはや砂漠的なキリスト教的世界観を越えて、全世界的に広まっているようにみえる。私が調査に参加したラオスのアカやモンの事例においても、政府によって焼畑農耕を規制され、地球環境保護という大義名分のために彼らの世界観が崩されてきている。これまで森林的思考=無限世界に生きてきた人々に対して、砂漠的思考=有限世界というコペルニクス的転回を強いられているのである。
また講義の中の事例において、外庭型に比べて中庭型住居の強固な環境形成作用を読み取った。具体的には中庭型住居に分類される台湾の三合院住居における理想風水の形象である。これにより立地場所から解放され、平坦地であろうと、また砂漠であろうとジャングルのなかであろうと、華僑の進出とともに拡がることができたのに対して、タイの山岳民族においては、それぞれが民族ごとの慣習に合った地形に立地することで、外庭型住居を成立させている。この二つの事例の対比によると、中庭型住居は地理的条件に左右されずに、住居によって自ら理想的な自然環境を創り出すことができるが、外庭型住居は、自然的条件が彼らの理想像と整合する場所へ集落を立地させないと、生み出すことが困難な形式であると捉えられる。
これらを通して私は、思考形式としても住居形式としても、砂漠的思考と中庭型住居が、風土を越えて拡がる可能性が高いものであり、森林的思考及び外庭型住居が、風土から切り離し難いものであると位置づける。
参考文献 鈴木秀夫「森林の思考・砂漠の思考」NHKブックス
宮本常一「日本人の住まい」農文協
参考文献 鈴木秀夫「森林の思考・砂漠の思考」NHKブックス
宮本常一「日本人の住まい」農文協
2014/01/01
建築家の変化
私が建築に対する考え方に迷った時、必ず思い出す建築家と、その建築家がつくった建築がある。
それは、建築が私の概念や欲望によって歪んで見えてくるのを自制してくれる役割を常に果たしてくれている。
私の建築観は、その建築家の言葉を借りれば「建築はその土地から生まれる」ということであり、「国破れて山河あり」という言葉における「山河」側に建築を属させるということである。国や国境といった人間の概念や欲望が消えた時に、山や川の自然はいつもの美しく懐かしい姿で変わらず存在している。そんな「第二の自然」としての建築を求めているのだ。
しかし、最近の文章でその建築家はさらに考えを進めていた。
「「国破れて山河あり」まさにその状態では建築も姿を消した状況なのではないだろうか。そしてこの言葉で最も重要なことは、「国破れて山河あり」の光景を眺め、人の儚さと自然の美しさをまさに感じた「人」が存在しているという点だ。」
「建築は第二の自然ではなく、人間にとっての第二の身体になるべきということが見えてくる。つまり人は己の肉体だけでは自然の中では生きていけず、己の肉体の不完全さを補うために建築が必要なのだ。人が求めるものは人の体温、人の気持ち、人の眼差し、人の希望、人のスケールを持ち、人に寄り添い、歩調を合わせてくれる親しみを持てる建築なのだ。」
これらの言葉は、2011年の東日本大震災の後に生まれたものであろう。普段あまり時世に左右された言葉を用いない建築家だけに、私には重く圧し掛かっている。
2013年には息子が誕生した。これからは彼を通じて、「国」や「山河」や「人間」や「建築」について考えていけたらと思う。
それは、建築が私の概念や欲望によって歪んで見えてくるのを自制してくれる役割を常に果たしてくれている。
私の建築観は、その建築家の言葉を借りれば「建築はその土地から生まれる」ということであり、「国破れて山河あり」という言葉における「山河」側に建築を属させるということである。国や国境といった人間の概念や欲望が消えた時に、山や川の自然はいつもの美しく懐かしい姿で変わらず存在している。そんな「第二の自然」としての建築を求めているのだ。
しかし、最近の文章でその建築家はさらに考えを進めていた。
「「国破れて山河あり」まさにその状態では建築も姿を消した状況なのではないだろうか。そしてこの言葉で最も重要なことは、「国破れて山河あり」の光景を眺め、人の儚さと自然の美しさをまさに感じた「人」が存在しているという点だ。」
「建築は第二の自然ではなく、人間にとっての第二の身体になるべきということが見えてくる。つまり人は己の肉体だけでは自然の中では生きていけず、己の肉体の不完全さを補うために建築が必要なのだ。人が求めるものは人の体温、人の気持ち、人の眼差し、人の希望、人のスケールを持ち、人に寄り添い、歩調を合わせてくれる親しみを持てる建築なのだ。」
これらの言葉は、2011年の東日本大震災の後に生まれたものであろう。普段あまり時世に左右された言葉を用いない建築家だけに、私には重く圧し掛かっている。
2013年には息子が誕生した。これからは彼を通じて、「国」や「山河」や「人間」や「建築」について考えていけたらと思う。
2013/05/18
「先輩社員が当社を選んだ理由」
建築というものは自動車とは違って動くことが出来ません。コンピュータ産業がどんなに進展しようとも、建築は一度建てられると、その「場所」に何年、何十年と存在し続けます。
また、建築が建てられる「場所」とは、決してどこでも同じものではありません。
仮に全く同じ設計図で二つの建築が建てられたとしても、その建築が建つ「場所」が変われば、二つは全く異なったものになります。
学生時代の私は、気候風土こそが、その違いを生み出すものだと考えていました。そして地元の気候風土を肌に感じながら建築をつくる為、私は当社へ入社しました。
皆さんが「建築をつくる」職業を望む上で確かな事があります。それは建築が「場所」に建って動かない以上、皆さんが動かずにいれば、決して理想の建築や会社には出会えないという事です。
ですから、インターネットや、会社案内に書かれている形式的な文章を眺めるだけではなく、是非一度、自分の足で当社を訪問して下さい。
そしてそこで働く社員と、その社員がつくりあげている建設現場を、自分の目で確かめて下さい。
皆さんがうわべの知識ではなく、自分自身の足と目で得た情報によって、就職先を判断する事を願っています。
(会社案内用に作成した文章)
また、建築が建てられる「場所」とは、決してどこでも同じものではありません。
仮に全く同じ設計図で二つの建築が建てられたとしても、その建築が建つ「場所」が変われば、二つは全く異なったものになります。
学生時代の私は、気候風土こそが、その違いを生み出すものだと考えていました。そして地元の気候風土を肌に感じながら建築をつくる為、私は当社へ入社しました。
皆さんが「建築をつくる」職業を望む上で確かな事があります。それは建築が「場所」に建って動かない以上、皆さんが動かずにいれば、決して理想の建築や会社には出会えないという事です。
ですから、インターネットや、会社案内に書かれている形式的な文章を眺めるだけではなく、是非一度、自分の足で当社を訪問して下さい。
そしてそこで働く社員と、その社員がつくりあげている建設現場を、自分の目で確かめて下さい。
皆さんがうわべの知識ではなく、自分自身の足と目で得た情報によって、就職先を判断する事を願っています。
(会社案内用に作成した文章)
2011/07/04
「変身」
2011年7月2日土曜日の夕方、家からコンビニへ向かっていると、隣の家に住む8歳のナツキとそのお母さん、妹のアヤカとすれ違った。
するとその時ナツキに「あ、おじさんだ」と呼ばれた。
つい最近までは「ゆうたろうくん」とか「ゆうたろうお兄ちゃん」などと呼んでくれていたはずである。
どうやらある時から、彼女にとって私は「お兄ちゃん」から「おじさん」へと変わったらしい。
フランツ・カフカの小説「変身」では、主人公グレーゴル・ザムザが、ある日巨大な虫に変身してしまう。
小説のタイトルどおり「変身」するのは間違いなく主人公のグレーゴル・ザムザなのだが、実はザムザ自身は何も変わっていないと、私は考えている。
彼は小説の最後まで、虫に変身する前のグレーゴル・ザムザそのものであった。
むしろ変わったのはザムザの周りにいる人達である。
その小説の終盤に、以下のような記述がある。
「ザムザ夫妻(グレーゴルの両親)は、しだいに生きいきとして行く娘のようすを見て、娘がこの日ごろ顔色をわるくしたほどの心配苦労にもかかわらず、美しい豊麗な女に成長しているのにふたりはほとんど同時に気がついた。」
私にはこの文章にこそ人間の「変身」の瞬間が描かれているように思われる。
するとその時ナツキに「あ、おじさんだ」と呼ばれた。
つい最近までは「ゆうたろうくん」とか「ゆうたろうお兄ちゃん」などと呼んでくれていたはずである。
どうやらある時から、彼女にとって私は「お兄ちゃん」から「おじさん」へと変わったらしい。
フランツ・カフカの小説「変身」では、主人公グレーゴル・ザムザが、ある日巨大な虫に変身してしまう。
小説のタイトルどおり「変身」するのは間違いなく主人公のグレーゴル・ザムザなのだが、実はザムザ自身は何も変わっていないと、私は考えている。
彼は小説の最後まで、虫に変身する前のグレーゴル・ザムザそのものであった。
むしろ変わったのはザムザの周りにいる人達である。
その小説の終盤に、以下のような記述がある。
「ザムザ夫妻(グレーゴルの両親)は、しだいに生きいきとして行く娘のようすを見て、娘がこの日ごろ顔色をわるくしたほどの心配苦労にもかかわらず、美しい豊麗な女に成長しているのにふたりはほとんど同時に気がついた。」
私にはこの文章にこそ人間の「変身」の瞬間が描かれているように思われる。
2011/01/31
御殿場プレミアムアウトレット
新年1月3日に、彼女とその友人2人と共にセール中である御殿場プレミアムアウトレットへ買い物へ出掛けた。
御殿場に住んでいても、私がここへ訪れるのは年に一回ほどである。
この地にはかつて小田急御殿場ファミリーランドという遊園地があった。
ファミリーランドは東名高速道路開通から5年後の1974 年にオープンした。
1980年には、年間100 万人の入場者がいたが、その後は入場者数は低迷し、後年には、絶叫マシーンの存在でその名を馳せていた。私は当時絶叫マシーンが苦手だったため、夏場は大型プール、冬場はスケートをして楽しんだ記憶がある。
ところが 1990年代には少子化やレジャーの多様化などで入場者数が減少し、 ファミリーランドは1999年に閉園した。
ファミリーランド閉園の翌年、アウトレットモール運営会社であるチェルシージャパンとの間で同所を 30年間賃借する契約が結ばれ、アウトレットモールの「御殿場プレミアム・アウトレット」としてリニューアルオープンした。また、現在でも観覧車や、アトラクションの一部である水路等が残っており、特に観覧車は現在も営業を続けている。
このように日本の経済状況に合わせるように変化を遂げてきた特殊な場所である。
しかし私にはそういった経済原理よりも、遊園地時代からある大きな橋と、その軸線上に見える富士山の眺望の特殊さが気になっていた。
御殿場には渓谷と呼ばれるような地形はほとんどなく、川の向きが富士山に対して環状線に沿っているのもおそらくここだけである。
そのため、川に直交して架かる橋の軸線上に、富士山が見えるというのは非常に珍しい光景になるのである。
この地に起こっている特殊な経済原理も、特異な地形がもたらした、ということが言えないだろうか。
そんなことを考えながら、彼女たちとの暖かい時間を過ごしていた。
御殿場に住んでいても、私がここへ訪れるのは年に一回ほどである。
この地にはかつて小田急御殿場ファミリーランドという遊園地があった。
ファミリーランドは東名高速道路開通から5年後の1974 年にオープンした。
1980年には、年間100 万人の入場者がいたが、その後は入場者数は低迷し、後年には、絶叫マシーンの存在でその名を馳せていた。私は当時絶叫マシーンが苦手だったため、夏場は大型プール、冬場はスケートをして楽しんだ記憶がある。
ところが 1990年代には少子化やレジャーの多様化などで入場者数が減少し、 ファミリーランドは1999年に閉園した。
ファミリーランド閉園の翌年、アウトレットモール運営会社であるチェルシージャパンとの間で同所を 30年間賃借する契約が結ばれ、アウトレットモールの「御殿場プレミアム・アウトレット」としてリニューアルオープンした。また、現在でも観覧車や、アトラクションの一部である水路等が残っており、特に観覧車は現在も営業を続けている。
このように日本の経済状況に合わせるように変化を遂げてきた特殊な場所である。
しかし私にはそういった経済原理よりも、遊園地時代からある大きな橋と、その軸線上に見える富士山の眺望の特殊さが気になっていた。
御殿場には渓谷と呼ばれるような地形はほとんどなく、川の向きが富士山に対して環状線に沿っているのもおそらくここだけである。
そのため、川に直交して架かる橋の軸線上に、富士山が見えるというのは非常に珍しい光景になるのである。
この地に起こっている特殊な経済原理も、特異な地形がもたらした、ということが言えないだろうか。
そんなことを考えながら、彼女たちとの暖かい時間を過ごしていた。
2011/01/24
ルームシェアの友人夫妻
今から半年以上前のことだが、2010年4月11 日の日曜日に、学生時代に目黒でルームシェアをしていた友人夫妻と御殿場で会った。
私は昼過ぎに沼津の予備校での勉強を終え、急いで御殿場線に飛び乗った。
電車の中で、私は友人夫妻に対して笑顔が見せられるか不安になっていた。
日々何かに追われている感覚。その感覚に襲われている私の姿を見られるのが怖かったのである。
三時過ぎに友人夫妻と御殿場駅で合流し、そのまま彼らのレンタカーで内藤廣設計の「とらや工房」という茶屋でゆったりとした時間を過ごす。風の抜ける静かな空間の中で、どことなくぎこちなさを感じたのは私だけであろうか。
そこで時間を潰し過ぎたため、隣にある吉田五十八設計の、岸信介元首相の東山 旧岸邸は外観を眺めただけですぐに去ることになった。
その後箱根へ向かう途中にある風車のついたレストランから御殿場市街と雲で覆われた富士山を見下ろした。
どんよりとした曇り空と、その下に広がる街並みが、今の私の心情を映し出しているようで、さらにそれを友人夫妻に見抜かれるようで、なんだかすぐに去りたい心地になっていた。
美しい富士山の姿を見せられないまま、最後に私の家へ招待し、庭を一回りした後、居間で寿司を食べた。
食後三鷹へ帰る友人夫妻を庭先で見送り、居間へ戻った私は、笑顔でもてなし切れなかった自分に後悔した。
あれから友人夫妻と直接連絡を取ることは少ないが、彼は一級建築士試験の勉強に、新しく家族になった子供の世話と、忙しい日々を送っていることだろう。
しかし、彼の相変わらず世界を肯定し続けるウェブログを読むたび、決して弱い部分を見せず、常に笑顔でいることの大切さを知るのである。
私は昼過ぎに沼津の予備校での勉強を終え、急いで御殿場線に飛び乗った。
電車の中で、私は友人夫妻に対して笑顔が見せられるか不安になっていた。
日々何かに追われている感覚。その感覚に襲われている私の姿を見られるのが怖かったのである。
三時過ぎに友人夫妻と御殿場駅で合流し、そのまま彼らのレンタカーで内藤廣設計の「とらや工房」という茶屋でゆったりとした時間を過ごす。風の抜ける静かな空間の中で、どことなくぎこちなさを感じたのは私だけであろうか。
そこで時間を潰し過ぎたため、隣にある吉田五十八設計の、岸信介元首相の東山 旧岸邸は外観を眺めただけですぐに去ることになった。
その後箱根へ向かう途中にある風車のついたレストランから御殿場市街と雲で覆われた富士山を見下ろした。
どんよりとした曇り空と、その下に広がる街並みが、今の私の心情を映し出しているようで、さらにそれを友人夫妻に見抜かれるようで、なんだかすぐに去りたい心地になっていた。
美しい富士山の姿を見せられないまま、最後に私の家へ招待し、庭を一回りした後、居間で寿司を食べた。
食後三鷹へ帰る友人夫妻を庭先で見送り、居間へ戻った私は、笑顔でもてなし切れなかった自分に後悔した。
あれから友人夫妻と直接連絡を取ることは少ないが、彼は一級建築士試験の勉強に、新しく家族になった子供の世話と、忙しい日々を送っていることだろう。
しかし、彼の相変わらず世界を肯定し続けるウェブログを読むたび、決して弱い部分を見せず、常に笑顔でいることの大切さを知るのである。
2011/01/17
父の退職から一年
父が退職して一年が過ぎた。当時の事を思い出すため、一年前の私の日記を開いてみた。
「2009年12月1日火曜日。
鍵当番のためいつもより早く、朝六時半過ぎの電車に父は乗ったらしい。
私はそれより早く家を出ているのでその姿を見ることはできない。
次に父に会ったのは父が帰宅した夜10時半であった。
その間に私が父の事を考える時間は全くなかった。
当然、父がどんな椅子に座って、何を思って仕事をしているのか私は知らない。
おそらく一番理解しているのは、この何十年もの間、休まずお弁当を作り続け、駅まで車で送り迎えを続けた母なのだと思う。
私の両親にとって、送迎の時間は、最も二人が内面を吐露できる時間だったのでは無いかと思っている。」
なぜなら私の家には、夫婦だけの時間を生み出す空間が存在していないのである。
「2009年12月1日火曜日。
鍵当番のためいつもより早く、朝六時半過ぎの電車に父は乗ったらしい。
私はそれより早く家を出ているのでその姿を見ることはできない。
次に父に会ったのは父が帰宅した夜10時半であった。
その間に私が父の事を考える時間は全くなかった。
当然、父がどんな椅子に座って、何を思って仕事をしているのか私は知らない。
おそらく一番理解しているのは、この何十年もの間、休まずお弁当を作り続け、駅まで車で送り迎えを続けた母なのだと思う。
私の両親にとって、送迎の時間は、最も二人が内面を吐露できる時間だったのでは無いかと思っている。」
なぜなら私の家には、夫婦だけの時間を生み出す空間が存在していないのである。
2011/01/10
出雲大社の改修
朝、会社へ向かう車中でラジオを聴いていると、こんなニュースが流れた。
「およそ60年ぶりに国宝の本殿の改修などを行う遷宮が進められている島根県出雲市の出雲大社で、本殿の大屋根に新しいひわだをふく作業が始まりました。
出雲大社では、3年前から国宝の本殿の改修が行われていて13日からは、585平方メートルある本殿の大屋根に、新しいひわだをふく作業が始まりました。作業では、「葺(ふ)き師」と呼ばれる4人が、屋根の周りに組まれた足場に乗り、水につけて軟らかくしておいたひわだを、竹製のくぎを使ってふき付けていきました。出雲大社の本殿に使われるひわだは、一般的な神社に比べて2倍から4倍も長いものが使われ、最も長いものは4尺、およそ1メートル20センチにもなります。葺き師たちは、扱い慣れていない長いひわだを丁寧にふいていました。この作業は、来年の2月まで続くということです。葺き師の高平勝也さんは「1枚のひわだが長いぶん難しい作業が続いています。4尺のひわだは、ふいたことがないので、楽しみな反面、どんな作業になるか想像がつきません」と話していました。」
60年という歳月は、職人の技術や、ひわだという材料を継承することができるようだ。
しかし、最後の「想像がつきません」という職人の言葉から察するに、想像力を継承するということは非常に困難なことなのかも知れない。
「およそ60年ぶりに国宝の本殿の改修などを行う遷宮が進められている島根県出雲市の出雲大社で、本殿の大屋根に新しいひわだをふく作業が始まりました。
出雲大社では、3年前から国宝の本殿の改修が行われていて13日からは、585平方メートルある本殿の大屋根に、新しいひわだをふく作業が始まりました。作業では、「葺(ふ)き師」と呼ばれる4人が、屋根の周りに組まれた足場に乗り、水につけて軟らかくしておいたひわだを、竹製のくぎを使ってふき付けていきました。出雲大社の本殿に使われるひわだは、一般的な神社に比べて2倍から4倍も長いものが使われ、最も長いものは4尺、およそ1メートル20センチにもなります。葺き師たちは、扱い慣れていない長いひわだを丁寧にふいていました。この作業は、来年の2月まで続くということです。葺き師の高平勝也さんは「1枚のひわだが長いぶん難しい作業が続いています。4尺のひわだは、ふいたことがないので、楽しみな反面、どんな作業になるか想像がつきません」と話していました。」
60年という歳月は、職人の技術や、ひわだという材料を継承することができるようだ。
しかし、最後の「想像がつきません」という職人の言葉から察するに、想像力を継承するということは非常に困難なことなのかも知れない。
2011/01/03
お弁当の箸
私は毎朝6時半前に家を出ている。
私が「行ってきます」と言う少し前に、いつも母が慌てて包んだ弁当箱と、レモンティーの入った水筒を渡してくれる。
母の作る弁当は高校生の頃から変わっていない。
それはおにぎりとタッパーに入れた少しのおかずという組み合わせで、当時私がそうして欲しいと希望したことから始まった。
この弁当の利点は、おにぎりを食べるとその分弁当の嵩が減ることである。また、早弁や遅弁にも自由に対応できるところがとても気に入っている。
ちょうど1年ほど前のとある朝も、私は変わらず母からそっけなく弁当を受け取り、ろくにお礼も言わず車へと乗り込んだ。
そして昼になり、弁当の包みを広げると、そこにはいつもとは違う箸入れが添えてあった。
それは普段の半分ほどの長さであった。中を開けると箸の柄が二つに分かれ、つなげて使うタイプのものであることがわかった。
誰が言った訳でもないのに、母は食後に自然とコンパクトになるこの弁当の利点を察し、買い換えてくれたらしい。
次の日、母がいつものように弁当を渡してくれた。
私は母に聞こえないように小さな声で、「ありがとう」と言って家を出た。
それから一年経った今、その箸のつなぎの部分は、摩耗して柄がすぐに取れてしまうようになってしまったが、私の「ありがとう」という言葉も、同じように摩耗しているのだろうか。
私が「行ってきます」と言う少し前に、いつも母が慌てて包んだ弁当箱と、レモンティーの入った水筒を渡してくれる。
母の作る弁当は高校生の頃から変わっていない。
それはおにぎりとタッパーに入れた少しのおかずという組み合わせで、当時私がそうして欲しいと希望したことから始まった。
この弁当の利点は、おにぎりを食べるとその分弁当の嵩が減ることである。また、早弁や遅弁にも自由に対応できるところがとても気に入っている。
ちょうど1年ほど前のとある朝も、私は変わらず母からそっけなく弁当を受け取り、ろくにお礼も言わず車へと乗り込んだ。
そして昼になり、弁当の包みを広げると、そこにはいつもとは違う箸入れが添えてあった。
それは普段の半分ほどの長さであった。中を開けると箸の柄が二つに分かれ、つなげて使うタイプのものであることがわかった。
誰が言った訳でもないのに、母は食後に自然とコンパクトになるこの弁当の利点を察し、買い換えてくれたらしい。
次の日、母がいつものように弁当を渡してくれた。
私は母に聞こえないように小さな声で、「ありがとう」と言って家を出た。
それから一年経った今、その箸のつなぎの部分は、摩耗して柄がすぐに取れてしまうようになってしまったが、私の「ありがとう」という言葉も、同じように摩耗しているのだろうか。