2009/06/29

チャールズ・チャップリン

見上げてごらん。人の魂には翼があったんだ。
やっと飛び始めた。虹に向かって飛んでいる。希望の光に向かって。
すべての人の輝く未来に向かって。
見上げてごらん。
_____「独裁者」より

東一組一班長

父は現在、私達家族が住んでいる地域の班長である。正確には東一組一斑長という。
そのため玄関には「東一組一斑長」という札が下げられている。
この東一組一斑は80軒以上で構成され、二世帯住宅もあるため、世帯数はそれよりさらに多い。
アパートや借家住まいは、全体の半数以上になると母は言う。
班長としての仕事は回覧板や班費の回収、その経理はもちろん、地域の運動会やバーベキュー大会の準備、年に二度の道普請の調整など多岐に渡る。街灯が消えたと班の方から電話を受け、区長か組長へ報告することもあった。
先日班の方が一人亡くなられ、日曜から月曜にかけてお通夜と告別式が行われた。
父はその前日の土曜から月曜まで銀行員である自分の仕事を一切休んで、お通夜と告別式の段取りと役割分担に動いていた。
しかし最近の傾向にもれず、自宅ではなく葬儀場を借りて葬儀を執り行ったので、父の仕事は格段に少なかったという。母がお手伝いで調理場に立つようなことはほとんどなかった。
この街には6か所ほどの葬儀場があるが、私がかつて体験した祖父と祖々母の葬儀は自宅で行われたのを思い出した。今後家族に不幸があった時にどうなるのかはわからない。
お通夜の前日の夕食時に、祖母は亡くなった方の人柄について、私たち孫に話してくれた。
それを聞いた私は、その方の顔をはっきりと思い浮かべることができなかった。
そんな私は、東一組一斑長の息子である。

紫陽花に奥歯に水がしみにけり

ちひろ美術館・東京

卒業旅行行程図

2009/06/22

吉田五十八

私はまず、数寄屋建築の近代化から手をつけてみようと考えたのであります。
ということは、従来の日本建築のうちでは、数寄屋が一番近代化されており、現代生活に引きもどしやすいと、考えたからです。

御殿場市立図書館

梅雨の長雨が続く午前9時過ぎ、私は母の白い軽自動車を運転して市立図書館へ向かっていた。
毎月第3日曜日は、市立図書館で除籍になった書籍を広く市民に還元する、リサイクルブックデーである。
20冊を限度に無料で書籍が手に入る今日は、私にとって月に一度の楽しみとなっている。
実はこの日が楽しみな訳は、単に本が手に入る事だけではなく、図書館がこの街で唯一かも知れない、北欧の光を体験出来る場所だからである。
北側のハイサイドライトによって満たされる、書架スペースの静かな光は、特に曇りがちで周囲の照度が低い時に強調される。
しかしこれは、北欧に訪れたことのない私の感覚ゆえに、甚だ説得力に欠けるものであろう。
一度この市立図書館の断面計画と、アルヴァ・アールト設計によるフィンランドでの作品群の断面計画とを比較しなければなるまい。もちろん日本とフィンランドの緯度の差による、太陽の位置や光の強さは、考察に不可欠な要素である。
そんなことを考えながら開館前に市立図書館へ着くと、すでに2、30人程が並んでいた。
そして開館になり中へ入ると、除籍になった本の棚に群がる人々と、雨で濡れた服と、汗と、古ぼけた本の匂いで、私はすっかり参ってしまった。
この時だけは、全く梅雨時の日本そのものであった。

梅雨晴や友と語りし窓の外

林芙美子自邸

ちひろ美術館・東京

2009/06/15

枝を切り喜雨の様に出る汗涙

カルロ・スカルパ

もし私が2mの幅の廊下を設計するのならば、打放しの床仕上げにするだろう。
もしそれが、1.5mの幅ならば、左官仕上げにしなければならない。
また1mの幅であるならば、上塗り仕上げの上に塗装仕上げをするだろう。
それが80cmの幅ならば、スタッコ塗りの秀れた職人を探しに行かなければならないだろう。
そして、50cmの幅であったならば、きっと黄金の仕上げにするだろう。

サッカーとキャッチボール

時々弟と家の裏手の芝生でサッカーボールを蹴る。
幼稚園に入る頃から何となく独りでボールを蹴り始め、小学校のサッカーチームに所属したことで私のサッカー人生が始まった。
野球好きのおじからもらったグローブは全く使われず、毎日夢中でボールを蹴っていた。そして気がついたら中学三年の六月に過度の練習の為、体が悲鳴を上げてしまった。一年半走れなくなった。
高校や大学でもサッカーは断続的に私の周囲に存在していたが、中学までの情熱は嘘の様に冷めていた。
当時何故あれほどサッカーに熱中していたのか。実は、試合よりチームでの練習より、私は独りでボールを蹴っている時間が好きであった。
私はチームが同じ目標を共有する事以上に、私とボールだけの、自由にイメージが広がっていく感覚を求めていた。ただ、それが結果的にチームの勝利というものにかろうじて繋がっている事は、とても重要であった気がする。
しばらく忘れていたその楽しみは、今では建築というものに取って代わった。
それは、建築が皆と共感を得なければつくれないものであるにもかかわらず、自己の内側へ籠り、自由にイメージを膨らませることができるという、以前と同じ喜びを感じられるからかも知れない。
しかしかつてのように、走り過ぎて体が悲鳴を上げてしまう事だけは、繰り返したくない。
そのためには、過去に放り投げてしまったグローブをつけて、誰かとキャッチボールを始めるのが良いように思う。

倫理研究所富士高原研修所

南の家

2009/06/08

私の部屋

私の部屋には、北側と東側に窓がある。
毎朝布団から起き上がらずにこの二つの窓を覗くと、空だけが切り取られている。
布団をあげてそこへ置いた長椅子に座っていると、東側の窓からは竹藪が、北側の窓からは富士山が見える。
椅子に座り机に向かっている時、ふと窓を眺めると今度は芝生と欅と柿の木と茶、そして周囲のアパートや家々が顔を出し、かすかな川の流れを感じる。
また部屋の中で立ち上がると、今まで隠れていた手前の畑や、軒先で休んでいる祖母の存在に気づく。
この二つの窓は、私の位置によって様々な景色を映し出してくれる。
と同時に、窓の外の世界も日々刻々と変化していることを、布団から眺める空や長椅子と向かい合う富士山が教えてくれる。
私の部屋の窓は、そんな窓である。

弟の日焼けで火照る寝顔かな

村上春樹

「巨大さってのは時々ね、物事の本質を全く別のものに変えちまう。
実際の話、そいつはまるで墓には見えなかった。山さ。」
_____「風の歌を聴け」より

ソーク生物学研究所

タウンハウス三田201号室

2009/06/01

サン・テグジュペリ

ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。
理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。
_____「人間の土地」より

建築家との手紙

ある建築家に手紙を送った。
その建築家が求めているのは、時間や関係や状態といった、かたちではないものである。
同時にその建築家は、「具体的な寸法・材質・構造・色をもった、目に見えるかたちをつかって表現しなければ、建築をつくれない」ことをよく知っている。
ほどなくしてその建築家からポストカードが届いた。
ポストカードに描かれていたのは、19世紀後半から20世紀初頭のデンマークの画家、ヴィルヘルム・ハンマースホイによる風景画であった。
偶然にも私は彼の描く人のいない風景画と室内画、そして彼の妹と妻の肖像画に強く惹かれていた。初めてハンマースホイの絵を見たとき、彼のまなざしを、そのままこの身に引き受けたいとさえ思った。
私はすぐにその建築家へハンマースホイの室内画が描かれたポストカードを送った。
私はその建築家と画家のことが、また好きになった。

狩野川や祭りの音も近寄らず

小淵沢の渓谷

寛閑居