2009/05/25

田園調布

五月の陽射しが眩しい土曜日の午前、田園調布駅前の日陰に座っていると、ロータリーに高級車が何台も通っては停まっていくのが目についた。

の車から降りてくるのはたいてい女の子で、バレエの衣装を着ていたり、テニスのラケットを肩に下げたりしているのが目につく。
さらに目につくのは降りるときの彼女たちと見送る親の無表情さである。
その後歩いた田園調布の街はイチョウ並木の緑が鮮やかであったが、その街路と家との間には、何か隔たりのようなものが感じられた。
この街の雰囲気と駅前ロータリーの光景には何か関連性があるのであろうか。
そんなことを考えていると、私は、今朝父親が私と妹を地元の駅まで、車で送ってくれたことを、ふいに思い出した。
その時の光景を見て、私の家の前を通ったことのある人がいたら、その人は私たち家族の生活をどのように想像するのか、私は気になった。

光庭家と露台に現れり

山田かまち

虹のように消えてゆくきょうも
午前0時で明日につながっている。

玉川田園調布共同住宅

ウィルヘルム・ハンマースホイの家

2009/05/18

嵐の夜莢豌豆も倒れけり

宮沢賢治

二疋の蟹の子供らが青じろい水の底で話していました。
「クラムボンはわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
「クラムボンは跳ねてわらったよ。」
「クラムボンはかぷかぷわらったよ。」
_____「やまなし」より

恩師

週末に大学の恩師と会うため、新百合ケ丘の自邸を訪ねることになっている。

恩師は建築家であり、フィールドワーカーである。
大学四年から大学院を卒業するまでの三年間、私は恩師と対話を、文字通りの言葉と言葉による対話を、あまりしてこなかった。
その理由は対話の相手が常に研究対象そのものであったからだと、自分には言い聞かせている。しかし実際は私が恩師と対話する言葉を持っていなかったからであろう。
そんな仲ではあったが、これまでに私は恩師から幾つかの言葉を頂いた。それはこんな言葉であった。
「近代化は不可逆である」「設計に正解はない」「環境が人を変える」
また私個人に対して恩師はこのように評された。
「君は大正時代の子供である」「君は観念的である」「君は労働の分配が出来ない」
そして卒業時に恩師が私に与えてくれた言葉は、「自己と他者のあいだ」であった。
これらの言葉には、恩師と私とその関係と研究室での三年間が、濃密に圧縮されているように感じる。
次に会うときは私から恩師へ、言葉を贈ろうと思う。そしてそこから対話が、穏やかに始まっていくことを願っている。

ディズニー・コンサートホール

フィッシャー邸

2009/05/11

茶摘み

四月の終わりから五月の初めにかけて、家の周囲で最も若葉の黄緑色が目立つのは、柿と茶である。

毎年この時期に休日一日を使って、我が家では茶摘みをおこなっている。
茶の木々は、家の裏手の芝生を囲うように植えられており、生垣としても機能している。いわゆる茶畑と呼べるものではない。
我が家の茶にはザイライとヤブキタという2つの品種があり、樹齢の問題、品種の問題からヤブキタの方がこのところ勢いが良い。今年は合わせて46kgの茶葉が摘めた。
久しく茶摘みなどしていなかった私は、集まった親戚たちの摘み方を見様見真似するしかなかった。
すると、人によって摘み方にかなりの違いが見受けられた。
ある二人の男性は、両手で乱雑に摘んでいた。むしろ毟っているといった方が正確かも知れない。籠の中はすぐに一杯になっていく。
隣の家のおばあちゃんは、枝の一本一本を丁寧に持ち、脇に生えている茶葉まで摘んでいた。
伯母はただ一人逆手で茶葉を迎え入れるように摘んでおり、茶葉が摘まれる瞬間の挙動がとても小さかった。
後の二人が摘んだ茶の味は、前の二人とは違ったものになるだろうと思う。
しかし後の二人を真似て摘んだ私の茶の味は、摘み方同様、二番煎じになるだろう。

風に揺れ水面に映える早苗かな

篠原一男

装飾することのむずかしさは、機能主義の無装飾主義とは比較にならないことはいうまでもないだろう。
合理主義・機能主義は、いわば、頭脳の作業であった。
しかし、装飾空間はもっと本能的・肉体的なもの、すさまじい人間情念の作業による芸術であるからだ。
_____「住宅論」より

浮月楼

いこいの村庄内

2009/05/04

羽黒山若葉を愛でぬ石の道

田中泯

私は場所で踊るのではなく、場所を踊る

夜行バス


新宿から山形・鶴岡市へ夜行バスで向かっていた。

そのバスの中で、こんな夢を見た。
夢の中では私は東京・恵比寿に住んでいて、朝起きると隣りにはMさんが寝相悪く眠っていた。
Mさんの向こうにはキッチンがあり、そこではAさんが包丁で野菜を切っていた。
ワンルームであるそのすまいを見渡すと、南の窓際にMさんの祖父の小さな盆栽があり、その窓の横の壁にクリムトの「接吻」が飾られ、ユニットバスのドア近くの壁にAさんが描いた絵が飾られていた。
MさんがAさんに起こされるまでの間、私はAさんの後ろ姿を独り占めにし、窓から入ってくる春の陽と穏やかな風に満たされた、MさんとAさんの部屋を独り占めにしていた。
目が覚めると、私は田に水を張り始めたばかりの初夏の庄内平野にいた。
そして夢に出てきた二人は、若葉が映える一本の木の下で、寄り添って立っていた。
二人が結ばれることを、神ではなく、私たちと木と、広がる平野に誓う姿は、いかにも二人らしく、自然に見えた。

土門拳記念館

ツツジ