2011/08/18

石川啄木

こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ

2011/08/15

萩原朔太郎

この不幸な人は、人生を不断の活動と考へて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考へ、ああして毎日、時計をみつめて居るのです。_____「時計を見る狂人」より

2011/08/03

内藤廣

基本的に構造力学は人間とは無関係です。問題は、その力学のスピリットをどうやったら誤解なく自然に人間のものにできるか、人間の生活、人間の感性に近いものにできるかです。ここに、構造デザインの意味があります。

必要だから建てられたという、事実だけを背負ったようなもの、に憧れる気持ちがあります。建築をめぐる状況が、あまりに複雑になってしまったからかもしれません。

計算が要領よくできたり仕事を適当にさばけたりするのが本当のエンジニアではなく、工学的な境界線に立った時、予想外のことが起きたときに適切な判断ができるのが本当のエンジニアというものです。

2011/07/04

旧石田家住宅

ハンス・コパー展

奈良美智

ただ絵が描きたいだけなんだ

登らずに眺める易し富士の山

「変身」

2011年7月2日土曜日の夕方、家からコンビニへ向かっていると、隣の家に住む8歳のナツキとそのお母さん、妹のアヤカとすれ違った。
するとその時ナツキに「あ、おじさんだ」と呼ばれた。
つい最近までは「ゆうたろうくん」とか「ゆうたろうお兄ちゃん」などと呼んでくれていたはずである。
どうやらある時から、彼女にとって私は「お兄ちゃん」から「おじさん」へと変わったらしい。
フランツ・カフカの小説「変身」では、主人公グレーゴル・ザムザが、ある日巨大な虫に変身してしまう。
小説のタイトルどおり「変身」するのは間違いなく主人公のグレーゴル・ザムザなのだが、実はザムザ自身は何も変わっていないと、私は考えている。
彼は小説の最後まで、虫に変身する前のグレーゴル・ザムザそのものであった。
むしろ変わったのはザムザの周りにいる人達である。
その小説の終盤に、以下のような記述がある。
「ザムザ夫妻(グレーゴルの両親)は、しだいに生きいきとして行く娘のようすを見て、娘がこの日ごろ顔色をわるくしたほどの心配苦労にもかかわらず、美しい豊麗な女に成長しているのにふたりはほとんど同時に気がついた。」
私にはこの文章にこそ人間の「変身」の瞬間が描かれているように思われる。

2011/07/01

寺田寅彦

知識は、それだけでは云わばただ物置の中に積み上げられたような状態にある。それが少数であるうちはそれでもよい。しかし数と量が増すにつれて整理が必要になる。その整理の第一歩は「分類」である。

2011/06/26

正岡子規

電信の柱にあつし蝉の声
_____明治26年

2011/06/25

萩原朔太郎

雨景の中で
ぽうと呼吸《いき》をすひこむ霊魂
妙に幽明な宇宙の中で
一つの時間は消抹され
一つの空間は拡大する。
_____「蟾蜍」

中原中也

農家の庭が欠伸(あくび)をし、 道は空へと挨拶する。 私の心は悲しい……
_____「 冬の明け方」

萩原朔太郎

人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。
_____「家」

2011/05/24

萩原朔太郎

宿命的なる東洋の建築は、その屋根の下で忍従しながら、甍《いらか》に於て怒り立っている。
_____「触手ある空間」

2011/03/01

坂本一成

「現場の所長、現場監督というのは我々が想像している以上に大変な仕事で、ものすごい能力が必要だと思います。しかし現場の監督者は空間を構想することはあまりないですよね。空間を実現することの構想力はあるけれど。」

2011/02/26

白井晟一

「用」から「美」を独立させたときから自然力としてのニンゲンハ誤られ始める。「美」をつくる術が人間の手にあるとおもいあがったときから、人間の生命と自然の根本法則との連着が断ちきられてしまった。

美は人間が作るものとは言い難い。求めて得られるものではない。人間にはただ表徴と抽象の能力が与えられているだけである。

2011/01/31

フィリップ・エクセター・アカデミー図書館

ラオスのメコン川

東山魁夷

デンマークの人は本当の幸福を知っているのかもしれない。元来、幸福ということは消極的な喜びだけを意味するのだろうからね。
_____「古き町にて」より

箱根路の時を止めるは狐の死

御殿場プレミアムアウトレット

新年1月3日に、彼女とその友人2人と共にセール中である御殿場プレミアムアウトレットへ買い物へ出掛けた。
御殿場に住んでいても、私がここへ訪れるのは年に一回ほどである。
この地にはかつて小田急御殿場ファミリーランドという遊園地があった。
ファミリーランドは東名高速道路開通から5年後の1974 年にオープンした。
1980年には、年間100 万人の入場者がいたが、その後は入場者数は低迷し、後年には、絶叫マシーンの存在でその名を馳せていた。私は当時絶叫マシーンが苦手だったため、夏場は大型プール、冬場はスケートをして楽しんだ記憶がある。
ところが 1990年代には少子化やレジャーの多様化などで入場者数が減少し、 ファミリーランドは1999年に閉園した。
ファミリーランド閉園の翌年、アウトレットモール運営会社であるチェルシージャパンとの間で同所を 30年間賃借する契約が結ばれ、アウトレットモールの「御殿場プレミアム・アウトレット」としてリニューアルオープンした。また、現在でも観覧車や、アトラクションの一部である水路等が残っており、特に観覧車は現在も営業を続けている。
このように日本の経済状況に合わせるように変化を遂げてきた特殊な場所である。
しかし私にはそういった経済原理よりも、遊園地時代からある大きな橋と、その軸線上に見える富士山の眺望の特殊さが気になっていた。
御殿場には渓谷と呼ばれるような地形はほとんどなく、川の向きが富士山に対して環状線に沿っているのもおそらくここだけである。
そのため、川に直交して架かる橋の軸線上に、富士山が見えるというのは非常に珍しい光景になるのである。
この地に起こっている特殊な経済原理も、特異な地形がもたらした、ということが言えないだろうか。
そんなことを考えながら、彼女たちとの暖かい時間を過ごしていた。

2011/01/24

タウンハウス三田201号室

那珂の家

ピーター・ズントー

建築は建築家の自我を通して語られるべきではありません。いかなる建築も特定の社会、場所、用途のために建てられます。私が設計を続けているのは、以上の単純な事実から派生する問題に可能な限り正確な答えを出すことなのです。

朝霜に気づかぬ部屋の暖房や

ルームシェアの友人夫妻

今から半年以上前のことだが、2010年4月11 日の日曜日に、学生時代に目黒でルームシェアをしていた友人夫妻と御殿場で会った。
私は昼過ぎに沼津の予備校での勉強を終え、急いで御殿場線に飛び乗った。
電車の中で、私は友人夫妻に対して笑顔が見せられるか不安になっていた。
日々何かに追われている感覚。その感覚に襲われている私の姿を見られるのが怖かったのである。
三時過ぎに友人夫妻と御殿場駅で合流し、そのまま彼らのレンタカーで内藤廣設計の「とらや工房」という茶屋でゆったりとした時間を過ごす。風の抜ける静かな空間の中で、どことなくぎこちなさを感じたのは私だけであろうか。
そこで時間を潰し過ぎたため、隣にある吉田五十八設計の、岸信介元首相の東山 旧岸邸は外観を眺めただけですぐに去ることになった。
その後箱根へ向かう途中にある風車のついたレストランから御殿場市街と雲で覆われた富士山を見下ろした。
どんよりとした曇り空と、その下に広がる街並みが、今の私の心情を映し出しているようで、さらにそれを友人夫妻に見抜かれるようで、なんだかすぐに去りたい心地になっていた。
美しい富士山の姿を見せられないまま、最後に私の家へ招待し、庭を一回りした後、居間で寿司を食べた。
食後三鷹へ帰る友人夫妻を庭先で見送り、居間へ戻った私は、笑顔でもてなし切れなかった自分に後悔した。
あれから友人夫妻と直接連絡を取ることは少ないが、彼は一級建築士試験の勉強に、新しく家族になった子供の世話と、忙しい日々を送っていることだろう。
しかし、彼の相変わらず世界を肯定し続けるウェブログを読むたび、決して弱い部分を見せず、常に笑顔でいることの大切さを知るのである。

2011/01/17

杉並区の店舗(東京女子大付近)

芝浦工業大学畑研究室(豊洲校舎)

船越桂

人間の歴史もアートの歴史も、隙間なく繋がっているように見えて、実は隙間が空いている。昔、日本式の庭で、石が並んでいるのを見たときに、その様子がアートの歴史のように感じました。石と石の間が開き過ぎて歩けないところには、もうひとつ石を置かなければならない。そこに、僕が石を置く。そういう気持ちがありますね。

柚を持つ甥の笑顔も今はなし

父の退職から一年

父が退職して一年が過ぎた。当時の事を思い出すため、一年前の私の日記を開いてみた。

「2009年12月1日火曜日。
鍵当番のためいつもより早く、朝六時半過ぎの電車に父は乗ったらしい。
私はそれより早く家を出ているのでその姿を見ることはできない。
次に父に会ったのは父が帰宅した夜10時半であった。
その間に私が父の事を考える時間は全くなかった。
当然、父がどんな椅子に座って、何を思って仕事をしているのか私は知らない。
おそらく一番理解しているのは、この何十年もの間、休まずお弁当を作り続け、駅まで車で送り迎えを続けた母なのだと思う。
私の両親にとって、送迎の時間は、最も二人が内面を吐露できる時間だったのでは無いかと思っている。」

なぜなら私の家には、夫婦だけの時間を生み出す空間が存在していないのである。

2011/01/10

明治神宮

田口邸

村上春樹

自分に同情するな。それは下劣な人間のやることだ。
_____「ノルウェイの森」より

初雪に滑るタイヤと我が心

出雲大社の改修

朝、会社へ向かう車中でラジオを聴いていると、こんなニュースが流れた。
「およそ60年ぶりに国宝の本殿の改修などを行う遷宮が進められている島根県出雲市の出雲大社で、本殿の大屋根に新しいひわだをふく作業が始まりました。
出雲大社では、3年前から国宝の本殿の改修が行われていて13日からは、585平方メートルある本殿の大屋根に、新しいひわだをふく作業が始まりました。作業では、「葺(ふ)き師」と呼ばれる4人が、屋根の周りに組まれた足場に乗り、水につけて軟らかくしておいたひわだを、竹製のくぎを使ってふき付けていきました。出雲大社の本殿に使われるひわだは、一般的な神社に比べて2倍から4倍も長いものが使われ、最も長いものは4尺、およそ1メートル20センチにもなります。葺き師たちは、扱い慣れていない長いひわだを丁寧にふいていました。この作業は、来年の2月まで続くということです。葺き師の高平勝也さんは「1枚のひわだが長いぶん難しい作業が続いています。4尺のひわだは、ふいたことがないので、楽しみな反面、どんな作業になるか想像がつきません」と話していました。」
60年という歳月は、職人の技術や、ひわだという材料を継承することができるようだ。
しかし、最後の「想像がつきません」という職人の言葉から察するに、想像力を継承するということは非常に困難なことなのかも知れない。

2011/01/03

年賀状

岡潔

数学とは生命の燃焼であります。

船橋の初日の出

お弁当の箸

私は毎朝6時半前に家を出ている。
私が「行ってきます」と言う少し前に、いつも母が慌てて包んだ弁当箱と、レモンティーの入った水筒を渡してくれる。
母の作る弁当は高校生の頃から変わっていない。
それはおにぎりとタッパーに入れた少しのおかずという組み合わせで、当時私がそうして欲しいと希望したことから始まった。
この弁当の利点は、おにぎりを食べるとその分弁当の嵩が減ることである。また、早弁や遅弁にも自由に対応できるところがとても気に入っている。
ちょうど1年ほど前のとある朝も、私は変わらず母からそっけなく弁当を受け取り、ろくにお礼も言わず車へと乗り込んだ。
そして昼になり、弁当の包みを広げると、そこにはいつもとは違う箸入れが添えてあった。
それは普段の半分ほどの長さであった。中を開けると箸の柄が二つに分かれ、つなげて使うタイプのものであることがわかった。
誰が言った訳でもないのに、母は食後に自然とコンパクトになるこの弁当の利点を察し、買い換えてくれたらしい。
次の日、母がいつものように弁当を渡してくれた。
私は母に聞こえないように小さな声で、「ありがとう」と言って家を出た。
それから一年経った今、その箸のつなぎの部分は、摩耗して柄がすぐに取れてしまうようになってしまったが、私の「ありがとう」という言葉も、同じように摩耗しているのだろうか。