2009/03/30
誕生日の贈り物
私は誕生日に贈り物をされるのが恥ずかしい。
ご馳走を並べてそれを皆で囲むのも苦手である。
何かの節目に賑やかに酒を酌み交わすのも性に合わない。
しかし東南アジアのモンもアカも、マレーシアのイバンも、自ら酒を造り、賑やかな音楽を奏でる。これは確かな事実である。
では何故私がそれを好かないのかと問われると、上手く答えられない。
ただ私はそういう時間にふと、「寂しい」という気持ちに襲われるのである。
嬉しいのでも悲しいのでもなく、ただ「寂しい」と。
その「寂しさ」を受け止めながら、なるべく慎ましく、静かにその時を過ごしたいのである。
一人の建築に関わる人間に起こっているこの感情は、忘れてはならない気がする。
2009/03/23
携帯電話と俳句
朝、私は携帯電話が振動して目覚めた。
私は友人からのメールを返信すると、急に一句詠まねばという思いに駆られた。
慌てて頭の中から季語を探したが、浮かんだのは昨夜緑道で出会った二輪の桜のみであった。
季語を探すという行為には、何か私の身体に重大な感覚を呼び覚ます効果があるようだ。
ある学者の説によって、試みに俳句を取り扱ってみると、叙景の句は以下のようになると、ある詩人は言う。
それは十七字の中に自分の欲する景色を再現するだけではいけなくて、その景色の中へ自分が飛び込んで、その中でダンスを踊らなくてはならない、と。
身体の動かし方にも、様々な方法があるものである。