2015/09/21

村上春樹

小説家という種族は(少なくともその大半は)どちらかといえば後者の、つまり、こう言ってはなんですが、頭のあまり良くない男の側に属しています。実際に自分の足を使って頂上まで登ってみなければ、富士山がどんなものか理解できないタイプです。というか、それどころか、何度登ってみてもまだよくわからない、あるいは登れば登るほどますますわからなくなっていく、というのが小説家のネイチャーなのかもしれません。(p24)

しかし僕の経験から申し上げますと、結論を出す必要に迫られるものごとというのは、僕らが考えているよりずっと少ないみたいです。(p113)

「この人たちは総体(マス)として、僕の作品を正しく受け止めてくれている」ということです。(p259)

エイブラハム・リンカーンはこんな言葉を残しています。「多くの人を短いあいだ欺くことはできる。少数の人を長く欺くこともできる。しかし多くの人を長いあいだ欺くことはできない」と。小説についても同じことが言えるだろうと僕は考えています。時間によって証明されること、時間によってしか照明されないことが、この世界にはたくさんあります。(p282)

しかし僕の小説に対するアジア諸国の読者の反応と、欧米諸国の読者の反応のあいだに少なからぬ相違が見受けられるのも、また確かです。そしてそれは「ランドスライド」に対する認識や対応性の相違に帰するところが大きいのではないかと思います。また更に言うなら、日本や東アジア諸国においては、ポストモダンに先行してあるべき「モダン」が、正確な意味では存在しなかったのではないかと。つまり主観世界と客観世界の分離が、欧米社会ほど論理的に明確ではなかったのではないかと。(p287)

誤解されると困るのですが、土壌そのものに戻るということではありません。あくまでその土壌との「関係性」に戻るということです。そこには大きな違いがあります。外国暮らしから日本に戻ってきて、一種の揺り戻しというか、妙に愛国的(ある場合には国粋的)になる人を時折見かけますが、僕の場合はそういうのではありません。自分が日本人作家であることの意味について、そのアイデンティティーの在処について、より深く考えるようになったというだけです。(p293)

村上春樹「職業としての小説家」スイッチ・パブリッシング

2015/09/12

寂しさを家族で分かつ秋の夜

秋の夜

昨晩、台風で洗われた空の星達を眺めに、妻と息子の4人で、富士山の御殿場登山口まで行きました。
それぞれが何かを感じ、それぞれが何かを感じているという事を共有する。
写真にはうつりませんでしたが、後々まで心に残る風景とは、この星空のようなものではないのか。
そんな想いに耽る、秋の夜でした。