2015/10/28

富士吉田の紅葉


畑聰一

芹沢君も次のステップへと踏み出したようですね。一貫した行動を期待しています。また、若さには魅力と未熟さが同居しています。冷静に思慮深く行動することです。周りに100人いたら彼らはすべて自分と同じ人格と力とをもってそれぞれに人生を歩んでいると考えなければなりません。侮ってはなりません。また、謙虚さは最大の美徳で、人を惹きつけます。(就職を決めた時に恩師から頂いた言葉)

VernacularとInternational

学生の時に研究室のゼミで書いたと思われる文章が見つかりました。
当時の勢いに任せたこじつけの論理なのが恥ずかしいですが、これも当時の自分の一側面だと捉えて、以下に掲載します。

VernacularとInternational           
私が誤解を恐れずにこのVernacularという言葉を定義付けするなら、
Vernacular ⇔ International
である。今回はこの視点を保ちつつ、論考していく。
人類がはじめて誕生した時、その瞬間に、Vernacularなものが生まれていたのか・・・。
私はそうは思わない。むしろそこには、Internationalと呼べるものが存在していたのではないか。
人類が世界のあらゆるところで造った最初の建築は、竪穴式住居だと言われている(藤森照信)。それもプランは限りなく円形に近いものがほとんどである。
「屋根は被覆。壁は言語。」
これはアドルフ・ロースの言葉を丸山先生が独自に訳したものらしい。
竪穴式住居の写真を見たとき、これが屋根は被覆であることを完全に証明したものだと思わざるを得なかった。それは文化の差異を越えて、生物学的に必要な要求、つまり必然だったのだ。
しかし、それ以上に驚くべきは、壁が存在しないことである。つまり、人類が最初に誕生した時、その瞬間に、彼らには壁=言語が存在しなかったことになると言えるからだ。
つまり屋根が必然であるなら、壁は人間の可能性だといえる。
言語というものは、文化人類学者たちが最も力を入れている分野である。それは言語が文化というものを最も明快に表出しており、また、最も原始的な文化の表出が、言語だからに他ならない。その文化の表出である言語=壁が誕生していない、というのは、
壁=言語=文化
とすると、
→ 壁が存在しない=文化が存在しない=文化の差異が存在しない=International
と証明することができる。
さらに最初に言ったように、Vernacular ⇔ Internationalとするならば
→文化が存在する=文化の差異が存在する=Vernacular
ともいうことになる。
ここで、朧げにVernacularInternationalというものの輪郭が見えてきた気がする。
VernacularInternationalというものは、同じなのだ。モノとモノとの間に生まれた差異が、文化となって表れているのであり、それをVernacularと呼び、共通している部分をInternationalと呼んでいるのだ。
それでは、現代にVernacularなモノは存在しているのか。さらに時間と空間の堆積が行われているのか。いや、そうではないだろう。
その考えを決定づけるモノがModernismである。
Modernismというのは、Internationalなモノであり、時を越えて表れた竪穴式住居なのだ。
そうすると、Modernismの屋根と壁はどうなっているだろうか。Modernismの屋根はフラット。この形式は全世界共通である。しかし壁は存在すると思うだろう。そこでドミノプランを思い出してほしい。それはコルビュジェが考案したもので、Modernismの理念を簡潔に表したものである。屋根はフラットで統一され、そこに壁は存在していない。
しかし実際には壁は存在する。だが実際に存在するModernismの「壁」の多くが、機能性や合理性だけを手がかりにしている以上、それはここでいう「壁」ではないと言えるのではないか。それは必然であり、可能性ではないからだ。
Planを描くとき、屋根は載らないが壁は載る。
コルビュジェもこう言っていた。「planは駆動力である」と。
ただその可能性が「免罪符」になっているような気がする。その方向が正しいのかどうかはわからない・・・。
私はモノの存在に対し、優劣をつけるということは絶対にしたくない。しかしもし誰かがVernacularなモノがInternationalなモノに劣っているというならば、私はその人に対して、Vernacularなモノの方が優っていると明言する。それはもともと存在したInternationalなモノから徐々に、時には突発的に、その時間と空間の堆積によって育まれたモノだからだ。
Vernacularなモノが人類の中での文化的差異になるのに対して、Internationalなモノは、例えるならば、サルとヒトとの差異になるのではないか。
Internationalは「ヒト」の住居、Vernacularは「人間」の住居
もしこれを人類の進化・進歩だとするのならば、ModernismというInternationalなものが、前近代と近代以降のヒトを分けるものとなり、我々は進化・進歩した人間となったというのか。
しかしもしそうであれば、我々畑研究室がやっていることはなんなのだろうか。ヒトがサルを調べるように、近代以降の新人類が、旧人類を調べているだけのことなのか。
これから我々はVernacularに向けて歩きだすべきなのか。Internationalなままで行くべきなのか。それとも新たなInternationalを創出すべきか。私には未来の輪郭はまだ見えない。

旧武藤家住宅(山梨県富士吉田市)


旧宮下家住宅(山梨県富士吉田市)


2015/10/26

2015/10/06

清水先生へのメール


清水先生

早速のお返事ありがとうございます。
建築工学科は設立して50年経つんですね。畑先生から昔何となく設立の頃の話を聞いた覚えがあります。

記念行事そのものには特別な感情はありませんが、建築工学科という存在にはちょっと思うことがあります。
個人的な見解ですが、文系学部廃止などの流れを考えていきますと、建築工学科はある意味文系の空気を孕んだ理系学科として、隠れキリシタンの受け皿のような存在になっていくんじゃないでしょうか。
現代は善悪の判断が一瞬で反転し、右と左、あるいは前と後ろのどちらに向かえばいいのか分からないことが、これから更に増えると思います。
そんな時に、土地とモノと人について、時にフィジカルに、時にメタフィジカルに接し考えることの出来る建築工学科という存在は、とても重要になってくるのではないでしょうか。
少なくとも私にはそうでした。そしてそういう感覚を共有できる仲間ともそこで出会えました。

私の年代と後輩達とはSNS等で広く(浅く?)繋がっていますので、ヤフーメールのアドレスリストに載っていない人とも連絡出来ると思います。
記念行事に関して何か手伝えることがありましたら連絡下さい。

次回のさくら関係のイベントか、畑先生の別荘でお会いしたいです。
それでは、失礼します。