2014/01/01

建築家の変化

私が建築に対する考え方に迷った時、必ず思い出す建築家と、その建築家がつくった建築がある。
それは、建築が私の概念や欲望によって歪んで見えてくるのを自制してくれる役割を常に果たしてくれている。
私の建築観は、その建築家の言葉を借りれば「建築はその土地から生まれる」ということであり、「国破れて山河あり」という言葉における「山河」側に建築を属させるということである。国や国境といった人間の概念や欲望が消えた時に、山や川の自然はいつもの美しく懐かしい姿で変わらず存在している。そんな「第二の自然」としての建築を求めているのだ。
しかし、最近の文章でその建築家はさらに考えを進めていた。
「「国破れて山河あり」まさにその状態では建築も姿を消した状況なのではないだろうか。そしてこの言葉で最も重要なことは、「国破れて山河あり」の光景を眺め、人の儚さと自然の美しさをまさに感じた「人」が存在しているという点だ。」
「建築は第二の自然ではなく、人間にとっての第二の身体になるべきということが見えてくる。つまり人は己の肉体だけでは自然の中では生きていけず、己の肉体の不完全さを補うために建築が必要なのだ。人が求めるものは人の体温、人の気持ち、人の眼差し、人の希望、人のスケールを持ち、人に寄り添い、歩調を合わせてくれる親しみを持てる建築なのだ。」
これらの言葉は、2011年の東日本大震災の後に生まれたものであろう。普段あまり時世に左右された言葉を用いない建築家だけに、私には重く圧し掛かっている。
2013年には息子が誕生した。これからは彼を通じて、「国」や「山河」や「人間」や「建築」について考えていけたらと思う。